ジャコメッティのアトリエとジャン・ジュネジャコメッティの最後のアトリエは、私が2005年頃からダンスの研修やクラスに通っていた14区の通りにあった。 そのアトリエの壁に至るまで夫人が大切に保存していたものが、40年後の今年、ラスパーユ近くの瀟洒なアールデコのホテル・パルティキュリエ(一戸建て邸宅)に再現されることになった。 公開されているが、入館チケットの販売はなく、すべてネットでの時間指定の予約のみ。最初の特別展は「ジャン・ジュネが見たジャコメッティのアトリエ」だ。(9/16で終了) 前に書いたことがあるけれど、ジャコメッティのアトリエというのは私にとって「伝説」というか神話的な場所だ。 パリに住んで初期の頃にコレ―ジュ・ド・フランスで聴いていた講座にピエール・ブーレーズやイヴ・ボヌフォワのものがある。そして、ボヌフォワの語ったジャコメッティ論が私には強烈なインパクトだった。 ジャコメッティは「本物」、「生命」を表現しようとして工夫していたけれど、どんな肖像画や肖像彫刻を「本物」らしく制作していても、例えば、頭の丸みの中には「何もない」のは明らかだ。内臓や血管や血流も作れないし描けない。 で、ただのマチエールに過ぎない部分をどんどん削り取っていった。 それでも「本物」は現れず、彫像はどんどん細く、どんどん小さくなっていった。 それでもまだ命は宿らず、それを鑿の一撃で壊した。 その壊れる一瞬に、火花のように「本物」が現れたという。 いのちとは、形と形の消滅の境界線で輝くらしい。 その頃、もしアトリエが火事になったら、どの作品をもって逃げますか、と聞かれたジャコメッティは、迷わず「この猫」と、愛猫を指したそうだ。 猫は「命」を生きていたからだ。 やがて、すべてを極限に削っていった後に残るのは「視線」だと気づいた。 すべては「視線」を支え、「部分」やディティールの「本当らしさ」はどうでもよくなって、視線を支える「全体」が顕現するようになった。 そういう話で、私にはジャコメッティのアトリエは神話の舞台のようで、広く深く薄暗い地下神殿みたいなイメージがなんとなくあった。 で、今回忠実に再現されたというアトリエはすごくコンパクトだった。 休むためのベッドもそのままだという。 ジャコメッティ自身がアトリエをデッサンしたものも展示されていて、なるほどまさにこんな感じだったのだなと分かる。 全時間と全空間を巻き込んでいかないような局所的クリエイトなどクリエイトではないのかもしれない。 「到達点に行き着くために探し続けている」のだけれど、「到達した作品は、失敗ということ」だ、と晩年にも言っている。探し続ける過程にのみ真実が宿るということだろう。そうなると、ボヌフォワが語った、全作品がミニチュア化していったスランプの時代と本質的に変わらない。この世における「完成」とはフェイクであり「失敗」なのだ。時間芸術である音楽とは違い「完成」した一点もののオリジナルが「作品」として残る 美術作品のジレンマだ。 だからジャコメッティの作品とは生命の希求、本物の探索をそのまま内包しているもので、それが、鑑賞者の生命哲学と呼応した時に新たに脈打ち始める。 この犬の像は猫のものと同じく私の好きなものだけれど、アトリエにも置いてあった。 たとえば「犬の剥製」みたいなものと対極にある。 この、犬に向ける視線で何かが息を吹き返す。 ジャン・ジュネの肖像画。 丸顔だ。全てをぎりぎりにそぎ落としていくタイプのジャコメッティのスタイルで残ったぎりぎりの「視線」以外の「温かさ」が感じられる。 一連の作品を昔観たことがある矢内原伊作の顔の方が「ジャコメッティ」向きかなあ。 いや、ジャコメッティの顔の方が彼の作品に似ているかも。 おまけ: 今回修復されたこの建物はアールデコの小住宅の傑作で、建築か装飾系の人が窓や壁や階段などを盛んに撮影していた。トイレもドアを開けてから三段くらいステップを降りてこんな感じの作りで驚いた。 ジャコメッティには、似合わない。
by mariastella
| 2018-09-14 00:05
| アート
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