パリ・オペラ座の『トリスタンとイゾルデ』 その3(これは前の記事の続きです) ここで、ルージュモンの著作や私の論文の内容について書くつもりはない。 今思うと、第二次世界大戦がはじまる少し前に書かれたルージュモンの『愛について――エロスとアガぺ』(原題は「愛と西洋」でトリスタンとイゾルデ文学の系譜をたどっている)にももちろん、ワーグナーのトリスタンとイゾルデが言及されていたのだけれど、マルケ王との愛の関係は記憶がない。 性愛の欲望に焼かれる「エロス」の過激と過剰はそれ自体が「死」をはらんでいて、それが究極には、「アガぺ」という別の価値に拠る生き方につながる逆説というのが印象的だったのを覚えている。(ルージュモンの他の著作は後にフランスでフランス語で読んだが、この本はあれ以来一度も読み返していない)。 で、キリスト教の神秘主義者が語る「神との合一体験」のエクスタシーとの関係とか、昇華作用というものに興味を持った。ワーグナーのトリスタンには一度も「神」という言葉は出てこないのに、私の卒論には聖書の引用がたくさんあった。その時の私でも、こんなものをカトリックの神父さんに見せてもいいのか、という気はちらりとしたけれど、アヌーイ神父は、「自分にはよく分かるけれど先生たちには理解できるかどうか心配です」と言ってくれた。 『アクセル』の主人公のアクセルは財宝があるのに世俗を離れて知識を求めようとしている。けれど、人を殺めた後で、生きる欲望が目覚めて導師のもとを去る。ヒロインのサラは修道院にいたけれど抜け出した。2人とも、禁欲の果てに約束される輝かしいものを捨てたのだ。そんな2人が出会って、トリスタンとイゾルデのように愛の妙薬を飲んでもいないのに、はじめての生身の「愛」に向かい合って昂揚するのだけれど、トリスタンとイゾルデの第二幕の二場でトリスタンが突然「生」から「死」へ振れるように、この世では決して至高の「愛」には到達できない、愛を永遠のものにするにはこの世から別のところに行かなければならない、となる。 (それはどちらかというとトリスタンやアクセルの側から来るもので、イゾルデやサラは、この世での至福をまず味わうことのどこが悪いの ?と思っている部分がある。) で、卒論を書いていた当時の私がまったく無視していたことがある。 リラダンは、『アクセル』を書く前にワーグナーに会いに行ってワーグナー宅に滞在しているのだ。 1869年の7月16-25、9月13-18、そして1870年7月19-30の3回。 トリスタンとイゾルデの初演は1865年。 リラダンの死は1889年。『アクセル』は死の年に書かれたと思われる。 リラダンの信奉者だったジョセフ・ぺラダンが薔薇十字サロン展とワーグナーの『パルジファル』の曲を使ったコンサートを開いたのが1892年。『パルジファル』は聖杯伝説も取り入れたキリスト教的救済劇でありぺラダンの求めるものと一致していた。 ぺラダンは1888年にバイロイトに行き、「トータル・アート」であるワグナー楽劇に感動し、リラダンのアクセルもワーグナーも薔薇十字風にアレンジした。 ぺラダンは神秘的カトリック至上主義者で、パルジファルとアクセルという傑作はカトリックがテーマであり、ラテン世界においてはカトリックなしに芸術はなく「無」しかない、とまで言っている。 確かにリラダンもカトリックだった。 で、1887年にリラダンが残した回想記にワーグナーとの会話がある。(彼は記憶違いで1868年とした) トリスタンとイゾルデの「愛の死」が、リラダンの最大の関心だったことが分かる。 トリスタンとイゾルデの、死につながっているような至高の愛が、愛の妙薬などによって盲目になって求めあうようという次元の低いものであることの矛盾を感じたリラダンは、神という言葉が一度も出てこないことを含めて、ワーグナーに質問したかった。ニーベルンゲンの指輪など北欧の神話とキリスト教について聞いた時のワーグナーの答えは明快だった。 ワーグナーは青い目を見開いてリラダンを見つめ、「自分の芸術は祈りである」と答えた。 真のアーティストは自分の信じているものしか歌わず、愛しているものしか語らず、考えていることしか書かない。信じてもいないものを成功や金のために創られる作品は死んだ作品で、そのような裏切り者による「神」の名は、「虚偽」である。熱烈で聖なる信仰、正確で変更不能な信仰こそが真の芸術家の第一の徴である。真の芸術の価値と生の価値は分かつことができない。信仰のない者の作品は芸術家の作品ではない。生を高め、大きく、熱く、強くする生きた炎がないからだ。 科学だけでは器用で整合性があるもののしかできず、信仰だけが、超越に向かう叫びを生み出すが、世俗の耳には支離滅裂だと聞える。 真の芸術家だけが、科学と信仰という分かつことのできない賜物を結び付け作品芸術作品に消化できるのだ。 私に関しては、私は何よりもまずキリスト教徒である。私の作品のすべてはそのことにインスパイアされている。 ワーグナーのこの言葉を聞いたリラダンは、カトリック教会から異端扱いされたボードレールもこの同じ真実を語っていたと述べている。 リラダンの全文はここで見ることができる。 いやあ、驚いた。 卒論制作当時の私が何をどこまで把握していたか、実はもう覚えていない(読み返すこともなかったので)。 でも、これで見ると、リラダンの『アクセル』のラストシーンにおける主人公2人の「愛の死」はワーグナーのトリスタンとイゾルデをキリスト教神秘主義で読み取って突き進めたものといっていいくらいだ。 ワーグナーのこの「19世紀ドイツ風キリスト教アイデンティティ」は、後に反ユダヤ主義に結びつく要因になったともいえる。リラダンやぺラダンのように徹底して高踏、反俗「神秘主義」の方に向かったアーティストとは道が分かれた。 もし、当時、インターネットがあれば、これらの資料をいくらでも使えたかもしれない。いや、当時のワーグナーやリラダン研究自体がまだ今ほどには進んでいなかったかもしれない。 逆に、今、私が大学生でこれをテーマに卒論を準備しているとしたら、資料が多すぎて、溺れてしまい、風呂敷はどんどん広がり、ハードルは上がり、迷宮に迷い込むかもしれない。 最も必要な能力は、テーマについて考えることでもそれを理解することや自分の考えをまとめることでもなく、何より先に、まず、ネット資料のリテラシーになる。 ワーグナーのオペラを実際に観たのは高校時代の『トリスタンとイゾルデ』の他には『さまよえるオランダ人』、『ワルキューレ』くらいしかなかった。ビルギット・ニルソンのリサイタルには行ったことがある。 でもイタリア・オペラを観た回数の方がはるかに多い。 フランス・バロック・オペラ頭になってからは、今の自分のやっている音楽とワーグナーの関係など考えたこともない。 私の新刊『神と金と革命がつくった世界史』の第三章にはエリック・サティが1892年のぺラダンの薔薇十字コンサートの音楽監督だったことが書かれている。サティの「信仰」は、ワーグナーやぺラダンの方向には向かわなかった。その点に関して詳しいことは書いていないけれど、今なら、リラダン、ぺラダン、ワーグナー、ルージュモン、サティを組み合わせて、ドイツ音楽とフランス音楽の関係についてももっと本質的な何かについて書いてしまいそうだ。 それにしても、壁だと思っていた場所にいろいろな扉がパタパタと開く思いがけない「パリ・オペラ座のトリスタンとイゾルデ」体験となった。 ドイツ音楽美学の渡辺護さんとフランス象徴派文學の斎藤磯雄さんという私の若い頃の年の離れた「文通相手」が突然、つながった。 今日は、このことをバロック音楽仲間に話して聞かせることにしよう。 (以下、リラダンの回想より、ワーグナーの答えの部分です。 Jeme souviendrai toujours du regard, que, du profond de ses extraordinaires yeuxbleus, Wagner fixa sur moi. Mais,me répondit-il en souriant, si je ne ressentais, EN MON ÂME, la lumière etl’amour vivants de cette foi chrétienne dont vous parlez, mes œuvres, qui,toutes, en témoignent, où j’incorpore mon esprit ainsi que le temps de ma vie,seraient celles d’un menteur, d’un SINGE ? Comment aurais-jel’enfantillage de m’exalter à froid pour ce qui me semblerait n’être, au fond,qu’une imposture ? — Mon art, c’est ma prière : et, croyez-moi, nulvéritable artiste ne chante que ce qu’il croit, ne parle que de ce qu’il aime,n’écrit que ce qu’il pense ; car ceux-là, qui mentent, se trahissent enleur œuvre dès lors stérile et de peu de valeur, nul ne pouvant accomplir œuvred’Art-véritable sans désintéressement, sans sincérité. Oui,celui qui – en vue de tels bas intérêts de succès ou d’argent, — essaie degrimacer, en un prétendu ouvrage d’Art, une foi fictive, se trahit lui-même etne produit qu’une œuvre morte. Le nom de DIEU, prononcé par ce traître, nonseulement ne signifie pour personne ce qu’il semble énoncer, mais, comme C’ESTUN MOT, c’est-à-dire un ÊTRE, même ainsi usurpé, il porte, en sa profanationsuprême, le simple MENSONGE de celui qui le proféra. Personne d’humain ne peuts’y laisser prendre, en sorte que l’auteur ne peut être ESTIMÉ que de ceux-làmême, ses congénères, qui reconnaissent, en son mensonge, celui qu’ils SONTeux-mêmes. Une foi brûlante, sacrée, précise, inaltérable, est le signe premierqui marque le RÉEL artiste : — car, en toute production d’Art digne d’unhomme, la valeur artistique et la valeur vivante se confondent : c’est ladualité même du corps et de lâme. L’œuvre d’un individu sans foi ne sera jamaisl’œuvre d’un ARTISTE, puisqu’elle manquera toujours de cette flamme vive quienthousiasme, élève, grandit, réchauffe et fortifie ; cela sentiratoujours le cadavre, que galvanise un MÉTIER frivole. Toutefoisentendons-nous : si, d’une part, la seule Science ne peut produire qued’habiles amateurs, — grands détrousseurs de « procédés », demouvements et d’expressions, — consommés, plus ou moins, dans la facture deleurs mosaïques, — et, aussi, d’éhontés démarqueurs, s’assimilant, pour donnerle change, ces milliers de disparates étincelles qui, au ressortir du néantéclairé de ces esprits, n’apparaissent plus qu’éteintes, — d’autre part, lafoi, SEULE, ne peut produire et proférer que des cris sublimes qui, FAUTE DE SECONCEVOIR EUX-MÊMES, ne sembleront au vulgaire, hélas, que d’incohérentesclameurs : — il faut donc à l’Artiste-véritable, à celui qui crée, unit ettransfigure, ces deux indissolubles dons : la Science et la Foi. — Pourmoi, puisque vous m’interrogez, sachez qu’AVANT TOUT JE SUIS CHRÉTIEN, et queles accents qui vous impressionnent en mon œuvre ne sont inspirés et créés, enprincipe, que de CELA SEUL. Telfut le sens exact de la réponse que me fit, ce soir-là, Richard Wagner — et jene pense pas que Madame Cosima Wagner, qui se trouvait présente, l’ait oublié. Certes,ce furent là de profondes, de graves paroles… —Mais, comme l’a dit Charles Baudelaire, à quoi bon répéter, ces grandes, ceséternelles, ces inutiles vérités !
by mariastella
| 2018-09-28 00:05
| アート
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