L'art de croire             竹下節子ブログ

マクロン、オンフレイ、ディオゲネス

昨年熱帯低気圧に襲われた被害からの復興が遅れているサン・マルタン島(カリブ海のフランス海外準県)に訪れたマクロン大統領が、黒人の若者二人に囲まれてにこやかに写真を撮らせた時に、若者の一人が卑猥なニュアンスのある中指を立てているものが最近出回った。(別に貼り付けたくないので、見たい人はここ

マクロン内閣は最近、側近のベナラ事件(ボディガードなのに警察の腕章をつけて銃を携帯し、デモ参加者を殴打した ?)に続き、ユロー環境相、コロン内務相に次々に離反されて危機的な状況にあるのだけれど、この写真の若者たちの肌に触れているビデオなども加わって、「ゲイ疑惑」が表に出た。

彼と同じリセにいたという黒人の同窓生がビデオで昔から更衣室で自分が上半身裸になるとマクロンは興奮していた、などと証言 ?しているのも拡散された。

ベナラ事件の時にもゲイ疑惑がでていたらしく「ベナラとは性的な関係はない」と堂々とジョークにしていたのだけれど、パリのゲイたちは、すでにそれも独裁者の自信の現れだ、と見ていて、今回の一連の映像にも男の体が好きなのは明らかだ、などと言っていた。もちろんただおもしろがっているだけで非難の口調はない。

と、ここまでは、別に、私の関心を特に惹いたわけではない。この手のゴシップの前では、いつものことながら、ネットの映像のせいでいろいろ大変な世の中になったなあ、という感慨が先に立つ。

それなのに、俄然おもしろくなったのは、あの哲学者ミッシェル・オンフレイが自分のサイトに『 Lettre à Manu sur le doigté et son fondement 』という「公開書簡」を発表してからだ。

マクロンをマニュという愛称で呼びかけるのがまず挑発的だ。マクロンはどこかの中学生に「マニュ」と呼びかけられて「大統領閣下」と呼ばなければいけないよ、とわざわざ注意したのがこれまたビデオで拡散されている。

で、オンフレイは前にも「公開書簡」をサイトで読み上げていて、まあ、いろいろあるのだけれど、人気哲学者がこれだけ言いたい放題堂々とものを言える社会は羨ましい気もする。「マニュ」や親称と、偉大なる王さまのような尊称の並べたてを併用して徹底的にからかっている。

ミッシェル・オンフレイと言えば私にとっては、ベストセラーになった『無神論神学』の著者であり、そのやはり挑発的で主観的な反キリスト教論は、誤解や無知もあって底が浅いものだと思っていた。その上に、なんだか個人的なルサンチマンとコンプレックスを抱えすぎていつも怒っている苦手なタイプだ。

今回、マクロンのことを「汗に輝くたくましい体の美しい黒人に心底魅せられた」のをオープンにするのは共和国の大統領としていかがなものかという趣旨で書いたことで、その言説が「同性愛嫌悪」と「認定」されて、ラジオ番組出演をキャンセルされ、テレビでは「後悔しているか」どうかと聞かれて「全然」と答えていた(確かに、フランスでは「キリスト教嫌悪」などは「認定」すらされないhas beenでもある。彼の反キリスト教論はベストセラーになった)。

で、オンフレイは、そのインタビューで、アレクサンドル大王に話しかけられて「陰になるからよけてくれ」と答えたギリシャの犬儒哲学者ディオゲネスの言葉を引いた。ジュピター、フランス国王、絶対政権を演出してきたマクロン大統領など怖くないということだ。さらに、現代のディオゲネスとして自分の友人であるピアニストのパトリック・コーエンの話になった。

パトリック・コーエンは古い農場で電気もなしに暮らしている人だ。どうしてそのような生き方を選んだのかと聞かれると、そのような生き方の方が私を選んだのだ、と答える。

巷にいるディープ・エコロジストだとか、日本のブログで見かける「東大を出ても山の中で3坪の小屋を建ててシンプルライフに挑戦」という感じの人ではない。なんだか、「簡素であることは実存の本質だ」と思わせるられる人だ。若き天才ピアニストとして登場してキャリアを気づいたピアニストによるディオゲネス主義には、「挑発」やナルシシズムはない。


考えてみると、今は映像系SNSのせいで世界中でビジュアルがインパクトを持っているけれど、もとはと言えば、ギリシャ=ローマ系とユダヤ=キリスト教系のふたつのルーツを持つ「西洋文化」は昔から、「外見から自由になって存在の中身に近づけ」という思想を、ギリシャ哲学や新約聖書から継承してきた。それが建前上は少なくとも「王道」であるという認識がある。


それに対して、フランスで比較のために持ち出されるのが中国の「顔」の文化だ。中国人とビジネスをする時の心得として必ず引き合いに出される。つまり、「面子を保つ」というのが社会的な最優先事だということだ。それはそのまま日本でも同じで、面子、面目、世間体、顔を立てるとか顔をつぶされるとかが今でも根強い規範の中に組み込まれている。もちろん出家や隠遁者はいたし、見た目ではなくて言論や文学や教えを重んじる人もいた。

でも公平に見て、「西洋文化」において、「実存の核」は「見た目」にはない、という言説が「見た目」より優先されてきたのは事実だと思う。

今回のマクロンの写真にまつわるマイナースキャンダルは、ひと昔前だったらまったく伝わりも拡散されもしなかったビジュアル情報だ。それをめぐって、いろいろな人の「見た目」ではなくて「生き方」への問いが浮かび上がってきたのは興味深い。


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by mariastella | 2018-10-10 00:05 | 雑感
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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