(これは前の続きです)
>>ヘブライ語で『創世記』を研究することで一つの新しい人類学へと導かれた。天地創造の6日目に創られたアダムとは「ユマニテ」だった。彼は「神の似姿」であり「男+女」だ。
それなのに『創世記』のアダムはヘブライ語でIsh であり、女性の部分Ishahを忘れ意識下に閉じ込める。蛇の前で禁断の実を食べたのはこのアダムの無意識だったのだ。私たちの人生でも、私たちの潜在意識が自分の代わりに何かを決定してしまうことがある。
禁断の実を食べたせいで、アダムは「動物」と同じ状態に退行し、「男と女」に二極化してしまった。そこで初めて聖書の中の女が「エバ(イヴ)」という名で呼ばれ始める。けれども全てのアダムは創造された時のIshahを自分の中に想起することができる。キリスト教の信仰は「神を信じる」ことだけではなく「神の似姿」を見て私たちの中に再発見すること、失われた女性性を見つけることにある。それはキリストを通じてなされる。ひとりひとりが、イエスが語る神(Elohim)にもどらなくてはならない。
「そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。(ヨハネ福音書10-34)」 <<<
Sekko : なるほど、確かに、創世記を読むと、神は「人」を創っただけで、アダムとエバを創っていない。智慧の実を食べてしまってからはじめて「アダムと女」となり、楽園を追われてからアダムが「女」をエバと名付けて自分の一部だったものを疎外して外在化させた。
アニック・ド・スゼネルが「納得」させられた気分は何となくわかる。
「あなたたちは神々である」という言葉も悪くない。