(これは前の続きです)
>>>聖書を通して神ははっきりと語っている。すべての文字がロゴスである主のシンボルだ。ヘブライ語は複数のレベルの読み方を可能にし、そのそれぞれが神との対話になる。もちろん文字通りの意味はある。けれども文字が私たちにウィンクしてくる。例えば、同じ文節の中で同じ言葉が二度出てくるときは、二度目はいつも、隠れた意味を読むようにというよびかけなのだ。もっと深い読み方もあって、そこで得られた情報は読む者によって生きられるべきもので、それを生きることが喜びと解放のすばらしい体験となる。その生き方の求める道は犠牲を伴うし、物質的、感情的、時には霊的な安全地帯からの離脱につながる。親しい人に理解されなかったり、知り合いのサークルすべてから抜け出したりすることもある。
Sekko :これって一見、なんだか物騒な気がする。ある「教祖」の言葉を読んでカルト宗教に取り込まれてすべてを捨てて「出家」し、時には反社会的行為にまで突き進むような例を想起してしまうからだ。
とはいえ、最近、ヨーロッパではまさに、イスラム原理主義のような「強度」のある言説と信仰こそが浸透力があるわけで、それに比べて、既成の伝統的な諸宗教は限りなくぬるくなり、冠婚葬祭以外のインパクトを生活にもたらさず、生きる喜びも解放にもつながらない状況がある。民主主義や共和国理念の言説も弱弱しい。
科学主義、進歩主義が伝統「宗教」を抜け殻にして、宗教から「信仰」の言葉を奪ってしまった。その空白にこそカルトや原理主義の提唱する「生き方とリンクした強い言葉」が刺さっていく。
それは危険な状態だと思うから、他者と平和に共存し連帯するような生き方を可能にするような言葉や実践がインパクトを持って広がってほしい。
でも現実は、「絶対平和」などを騙るとすぐに理想論だとか、お花畑だとか言われて、「ミサイルが飛んでくる」「やられる前に攻撃せよ」などと叫ぶ声の方が響き渡る。
スゼネルのように何十年もぶれることがなく霊的人類学を探求し、「聖なる書物」のシンボリックなレベルでの普遍性を確信するに至ったような人が声を上げてくれるのは貴重なのだろう。
(続く)