(これは前の記事の続きです)
>>>どうしてそんなことが可能なんですか ?
A.J. ある時女性の友人が発した言葉が道を開いてくれました。「めちゃくちゃね、でも問題ないわ」と。
ニーチェは『陽気な知(悦ばしき知識)』の中で「大いなる健康」について語っています。それも私を救ってくれました。完全に健康だとか、活力あふれるとか、すべてのトラウマから解放されているとか、そういうものは夢の状態であり多分永久に到達できないものだと。それに対して、「大いなる健康」とは、私たちの内部のめちゃくちゃで乱雑な状態を軽く柔軟に受け止めて、苦しみが人生の中心に来ないようにすることなんです。「大いなる健康」は、不治の病を抱える我々の挑戦なんです。
Sekko :これはジョリアンのこの本をネットで試し読みできるところにも書いてあった。
悲劇とサイコドラマを区別せよと。
死、病、事故、別れなど人生には避けられない悲劇もあるけれど、それはある意味で単純なものだ。
その他に自分でややこしくこじらせているさまざまな心理的葛藤がたくさんあって毎日の現実を汚染している。それを解決する「治療」を求めるのではなく、それを抱えたままで「元気をもらえる」方法もあるという。
ニーチェのこの著作のタイトルは日本語ネットで検索したら「悦ばしき知識」とあったのだけれど、このジョリアンの本「いたずらな智恵」との関連で行けば「陽気な知」という感じかなと思う。
うーん、「断捨離」とかミニマリズムとかいう言葉も連想する。
無駄が多くて「乱雑な状態」を整理してすっきりすれば精神状態も良くなりすべてうまくいくというイメージ。
「大いなる健康」とは逆方向だ。
あまり断捨離とかを目指すと、それがどこまで行きつくか分からない。先が見えないとかえってイライラしたり不安になるし、せっかくモノを片づけたり捨てたりしたのにまたちらかったり増えたりすると断捨離する前よりも落ち着かない。自己肯定感も得られない。いや、言い換えると、断捨離ブームの中には、もやもやして整理のつかない心の中の葛藤から逃れられないので、見えるモノを整理することによって代替しようとしているケースもあるかもしれない。ジョリアンが禁欲的な修行で雑念を抑圧抑制する方法の限界を語るのもそこかもしれない。
逆に、ゴミ屋敷みたいな状態で暮らしている人は、無用物が堆積し散乱するという外部のモノの形に表すことで心の中の葛藤を「見ないようにしている」のだろうか。
どちらの場合も結局、自然体の軽い人生肯定感にはなかなかたどり着けないだろうとは思う。
(続く)