(これは前の記事の続きです)
>>>(ニーチェの)「大いなる健康」(ここを参照)の対極として、欲望を満たすために消費に狂奔する「大いなる食欲」と形容なさっていますね。今の社会は私たちをみな依存症にかりたてるのでしょうか ?
A.J. 残念ながら、社会で宗教というものが衰退したことで、行き過ぎた個人主義が広がったと言えます。「超越」という考え方や感性がなくなって、到達点も目的もない欲求に駆り立てられています。幸福という概念すらもはや共有されずに個人的な快適さへと矮小化されています。この個人主義は私たちの苦しみにつながります。なぜなら連帯するという私たちの性質の深い部分に反するからです。これは道徳的な考察ではなく倫理的な次元のことです。個人の欲求充足の道は本当の喜びや至福にはつながりません。
Sekko: ああ、「道徳」と「倫理」が使い分けられている。
道徳と倫理の違いというのは、フランスのように高校三年で哲学が必修でバカロレアの科目であるような国では、いたるところで解説されている。ここでは、このジョリアンの言い方をわかりやすくする方向で解説しよう。
もともとの意味は「慣習、習俗」という言葉のラテン語から来たのがモラル、道徳で、ギリシャ語からきたのがエティック、倫理などで同じだ。
で、倫理の方はアリストテレスの『二コマコス倫理学』で語られるように、ある政治的枠内での身の処し方の最適解のこと。「理」という字があるから「理性的、合理的に議論できる機能的なもの」というニュアンスに適っている。例えば、「安楽死」がいいか悪いか、合法化するかどうかというのは「倫理委員会」で議論される。
それに対してモラルの方は、もっと内面的な個人的なもの、とは言えるのだけれど、もとは宗教や伝統における善悪観にルーツを持つ。「徳」という字で連想しやすい。だから、モラルはその適用について議論したりするものではなくて、確信するのに近い。「上から目線」で与えられたもので、二元論的ともいえる。当然、時代や場所によってその「上」は変化するけれど、それを「自分のもの」として生きることを刷り込まれいる。
西洋思想の中では、18世紀の啓蒙の時代に「モラル」が普遍的なものであるかのように称揚された。それは、西洋近代の啓蒙思想が、キリスト教由来のモラルから宗教色を廃した「普遍主義」だったからだろう。
それに対して、「倫理」の方は、ポスト・モダン的なニュアンスだと言えるだろう。
つまり、ジョリアンがここで「人の本性は連帯するところにある」というのが「道徳」ではないと言っているのは、「連帯しなさい、連帯が善です」という「上から与えられた信仰」ではないと言いたいわけだ。
「倫理的な次元」だということで、それが苦しみに対処する「最適解」であると提言しているのだ。
(実際はモラルと倫理は同義に使われることも、補完的に使われることもある。モラルのルーツである宗教であっても、科学が発展し時代が変わることに適応してモラルを政治的社会的な枠で検討することがある。バチカンにもいろいろな「倫理委員会」がある。その反対で、政治的社会的文脈の違う時代の「伝統」に根差した上から目線の「道徳教育」を目指す国もある。)
(続く)