(これは前の記事の続きです)
>>> それを「精神的な整形外科」と呼んでいるのですね。
A.J. 快適さが人生の目的となる時には、私たちは満たされることのない渇きを止めたり情動を抑制したりするためにスピリチュアルなあれこれのテクニックにはまってしまいがちです。でも、私の眼から見ると、霊性というのは薬でもないしセラピーでもないし、ある存在の仕方なのです。
>>> その考え方で、あなたは韓国での体験について批判的な目を向けていますね?
A.J. 私は禅とキリスト教を実践するあるイエズス会の師の話を聞いて韓国に発ちました。ほとんどは無意識にでしたが、情熱や恐れや不安から解放されるという期待をふくらませていたのです。
内的な癒しというものを熱烈に求めていたので、その黙想のすぐ後の時期にレオナールにはまったのは、多分、黙想の反動だったのでしょう。
Sekko : この人は、脳性麻痺という障碍を乗り越えてきた人であることで、むしろ生命力やそれに根差すあらゆる種類の欲望の強度が高いのかもしれない。「情熱から解放されたかった」という言葉は印象的だ。「情熱」には内的な癒しが本当に必要なのだろうか。情熱が生命力とセットになっているのだとしたら、「癒し」とはなんだろう。「欲望」的には枯れ枯れになっている人の中にでも燃え続ける情熱はあるのだろうか。それと依存状態に落ちる反動との関係は?