『移りゆく時』LES TEMPS QUI CHANGENT アンドレ・テシネーアンドレ・テシネーの2004年作品、モロッコのタンジェを舞台に、ジェラール・ドパルデューの演じるアントワーヌが30年前の恋人だったカトリーヌ・ドヌーヴの演じるセシルを追ってやってくる話。 この二人は30代には1980年にトリュフォーの『終電車』で 共演し、その後立て続けにクロード・ベリ、アラン・コルノー(1981,1984)、フランソワ・デュペロン(1988)作品に起用されていずれも「濃い」印象の名演を見せたが、その後はまったく共演していなかった。 ドヌーヴが60代後半(ドパルデューは5歳若い)の2010年には『しあわせの雨傘』(雨傘)などで再び共演したけれど、これはその中間の2004年で、15年以上ぶりの共演、まさに、「再会」という感じの作品だ。ドヌーヴを何度も起用してきた名監督テシネーの作品でもある。でも、なぜだか、日本ではほとんど知られていないようだ。 2人が再会するシーンはこれ。 この映画の後、この二人は、貫禄たっぷりのドヌーヴ、太ってモンスターのようになったドパルデュー、と、ずいぶん雰囲気が変わったけれど、この作品では、2人ともまだ若い頃の繊細さ、脆弱さを残している。 ドパルデューはすでにかなり老けてはいるけれど、メガネの扱いがうまい。繊細なメガネをかけていて、メガネがないとはっきり見えないというのを強調する場面がいくつかある。それだけで、根本的な心の弱さが表現される。「対等な立場の2人の人間の関係においては、より相手を欲する方が圧倒的に弱くなる」というセオリーの一例だ。 テーマは「人は時の移ろいに抵抗できるのか?」。時は移ろい、人の心も移ろうのか、そこに生まれるのが無常観ではなくてメランコリーだというのがロマンティシズムの特徴で、それを初老の男女を通して描いたものなのだけれど、実は、名監督に名優を配しているのにフランスでも毀誉褒貶の差が激しかった。批評家の評判はいいが、一般客の一部からは激しく非難されている。 そのほとんどは舞台であるモロッコへの偏見を助長するようなシーンが多くて差別的だとはっきりいうものと、それを念頭においたものだ。 そして、これは、フランスの大都市とその近郊に住む人にとっては切実な問題なのだ。 私も、実は、この映画によって、はじめて、今まで目に入っていても見えてこなかったものが見えてきた。 日本の日本人ならもともと目に入っていないから、この映画のモロッコも単なるエキゾチシズム以上ではないだろう。 モロッコはアルジェリアとチュニジアと並ぶマグレブ三国で、モロッコは少しニュアンスが違うのだけれどありていに言えばすべて過去のフランスの植民地で、昔から大勢の「安価な労働力」として動員され、独立後も特別枠で多くの「移民労働者」やその子弟を「供給」し続けている。植民地だったからアラビア語の他に「フランス語」圏の一つでもあり、物価の安いそれらの国で働くフランス人も多いし、パリで教育を受けて国際的に活躍するムスリムの富裕層もいれば、移民の子弟のように二重国籍者も多ければ国際結婚する人もたくさんいる。 だから、パリや近郊で暮らしていて「マグレブ系」の知人がいない人などまずいないと言っていいだろう。 いわゆる「ゲットー」化している場所から抜け出せない人(その中には軽犯罪を繰り返した末に過激化してジハディストになる者も出てくる)は別として、共同体主義を排し人種統計も禁じられているフランスでは教育社会主義も徹底しているので、能力がありその気になればだれでも高学歴を得られる。 (大学やグランゼコール予備クラスは基本的に無料だし、例えば医学部はすべて国立で無料であり、最初の内部試験に合格すればすぐに看護助手としてのバイトもできるし4年目からの実地研修ですでに多少の報酬ももらえる。) もちろん建前とは別に「コネ」で成り立っているセクターも存在するけれど、「マグレブ系」の多くはまったく差別されていないし、人気芸能人などもたくさんいる。日本のように、見た目がまったく変わらなくても芸能人などが「旧植民地」出自などと偏見の対象にされるのとは全く異なる。 で、この映画も、そういう「フランスのマグレブ系」のスターたちが名脇役として好演している。 ドパルデューの演じるアントワーヌ(建築系の技師でこれはフランスの王道エリートの学歴を持っているのだと分かる)とドヌーヴの演じるセシル(彼女も学生時代にアントワーヌの恋人だったのだから高学歴だったのだろう。同い年という設定で、彼を捨てて10歳年上の精神科医のところにはしり、その後、その医師との関係で知り合った、今度は年下のモロッコ系の医師ナタンと結婚してモロッコに渡った。)の2人だけが金髪碧眼っぽい典型的なフランス人という設定だ。 でも、サッカーのナショナルチームの例を持ち出すまでもなく、「フランス人」と言っても、アジア人の目から見ると、それこそアジア人だとか黒人でなければ、マグレブ系とヨーロピアンの区別を普段は意識しない。 もともとラテン系、ケルト、ゲルマンの混血が多いし、マグレブ系は「肌の色がくすんでいる」と言われても、たとえば日本人の目からすると、マグレブ系の子供たちには金髪もいるし、ジダンのようなタイプもいるし、みな地中海的「濃い」タイプであって、基本的に「フランス人という外人」である。典型的な白人のフランス人だって、成人して髪の色が濃く髭も濃く、マグレブ系と似た風貌の人だっている。 そんなこともあって、フランスに40年以上も暮らしている私にとっても、「モロッコ」のイメージはさだかではなかった。モロッコの「フランス人ご用達」のバカンス村で過ごして観光もしたことがあるが、そこで働くモロッコ人スタッフはフランス生まれの人が多くて言葉の問題もない。今思うと観光用のエキゾチシズムを楽しんだだけだった。 映画なら相変わらず『カサブランカ』のイメージ。 そして身近に普通にいるマグレブ系の知人、隣人、アーティスト、知識人。 その他は、TVで報道される、若者たちの姿だ。自国で仕事がなく必死の思いでモロッコからスペインへと「不法侵入」してヨーロッパにいる同胞に頼ろうとする若者たちの絶望的な戦いが繰り広げられる。 それらの「モロッコ」を俯瞰するという視点が今までの私にはなかった。 この映画は、そんな私にとって強いインパクトを与えてくれた。単に、外国を舞台にすることで初老の男女の陰影あるラブストーリーが味付けされているというようなものではない。 マグレブ系のフランス人が怒ったのは、ドパルデューが指揮する建設現場のモロッコ人労働者たちがあまりやる気のない「群れ」のように描かれているとか、マクドナルドでバイトする若い女性が外ではしっかりとイスラムスカーフで髪を隠し、評判を気にして絶対に男を寄せつけないとか、そしてこれは私も確かにショックを受けたけれど、羊を犠牲にする儀式のシーンで、もがく羊を担いで来て、その周りで儀式の祈りを唱える男たちの前で押さえつけて喉を掻ききって、まだぴくぴくと脚を動かしている羊から真っ赤な血が広がっていくシーンが与える「野蛮」な印象などだ。 その一方で、カジノやバーもあり、サッカーをする子供たちや、マクドナルドなど、とてもリベラルというか「欧米」風文化も普通にあって、国際都市(舞台は晴れた日にスペインがはっきり見える地中海側のタンジェで、海岸にたむろして渡航の機会を狙う人々の描写についても偏見だと批判された)の開かれたエネルギーが感じられる。(これは2004年のもので、すでにイラク戦争についてのコメントも出てきていて、その後で高まっていくイスラム主義の気配も感じとられる) セシルと夫である医師のナタン(これを演じる俳優はコンスタンティノープルからアルジェリアに移住したユダヤ系の名家出身で、マグレブ系フランス人のカテゴリーだと言える。実年齢はセシルを演じるドヌーヴより15歳も若い。優秀な医師でスポーツマンという設定だ。金髪で若々しい「白人」の女性を妻としているのに、しょっちゅう浮気をしているという設定だ)の間の一人息子サミ(この俳優は見た目が赤毛のソバカスで色白だが実際にアルジェリア人の父とブルターニュ出身のフランス人の母を持つハーフのフランス人)が、モロッコの青年と同性愛の関係にあるというシチュエーションも、意味がなく偏見を助長すると批判された。サミは、パリで教育を受けたためにモロッコに仕事がないと言って、パリで子連れのモロッコ人女性と同棲している。でもおそらくパリで知り合ったらしいモロッコ人青年が忘れられずに「帰省」すると彼のもとに通う。これも、より欲望に身を焼かれるサミの方が弱い立場で、実際、モロッコ人男性はサミに、「お前は半分モロッコ人で半分フランス人で、半分男で半分女だ」と言って貶める。肌のくすんだマグレブ人が白人同性愛者にとってセックスアピールがあるという「偏見」を助長されると批判の的になった。 これら、批判の対象となった数々の偏見とか先入観というのは、こうもはっきり並べ立てられると、あらためて、フランスにおけるマグレブ系の人たちに対する集合無意識だの集団幻想だのの実態を明らかにしてくれる。 サミと共に「連れ子」といっしょに故国モロッコにバカンスに来たナディアは、双子の姉妹であるアイシャのところに行こうとするが断られて、サミの両親の家に厄介になることになる。ナディアの息子はどう見ても純マグレブ系だ。ナディアはサミがバイセクシャルであることも知っている。 パリで暮らすことで「自由」を手に入れた(けれども生き難さは隠しきれない)ナディアに対して、長くいっしょに暮らしてきた双子のナディアに見捨てられた形でモロッコに留まり、独身で自立して必死に生きるアイシャは冷たい。この双子の二役を演じているのはベルギー女優で、父がモロッコ人で母がスペイン人のハーフである。この映画で痛感させられるモロッコとスペインの距離的近さも連想せずにいられない。 この映画で、ドヌーヴの演じるセシルはラジオのパーソナリティをしている。アラビア語の担当女性が話すすぐ後にフランス語で語るのだ。そのラジオ局にはセシルと同年配のラッシェルという白人女性がいる。この人も国際的にいろいろな過去を持つ設定らしい。ラッシェル役は、国際的な映画人であったスラブ系のアメリカ人を父に持つ米仏の二重国籍女優だ。ほんとうに日本では想像がつかないくらいあちこちで「混血」しているし、国籍意識も希薄だ。「民族主義」など成り立たない社会なのだ。 (そんなヨーロッパに「イスラムアイデンティティ」を掲げる「移民」が増え続ければヨーロッパは早晩にイスラム化するだろう、と危機感を煽っているのが右翼政党だというわけだ。) こういうとても示唆的で、私にマグレブとヨーロッパと「混血」の実態をあらためて考えさせてくれた映画だが、フランスの一部の観客には生々しすぎで反発を生んだのだろう。 逆にもし日本人が見たら多くのものがスルーされるだろう。 で、こういう特殊なバランスの状況で繰り広げられる肝心のラブストーリーの方は、ある意味で平凡だ。 アントワーヌの方は、セシルと分かれてからもいろいろな女性と関係はしたけれど「愛」したのはセシルだけだという。結局結婚もせずに30年過ぎて、人生の終わりはセシルと過ごしたいと思いをつのらせる。彼女がタンジェでラジオをやっているのを突き止めてタンジェの建設現場の監督の仕事を手に入れる。この辺はスケールの大きいストーカーだ。 でも、ホテルでラジオから流れる彼女の声を聞いて過ごしながら会う勇気は湧かないという臆病ぶり。 とはいえ、上のビデオで見えるような情けない情況で出会った後では、一度拒絶されるとモロッコの伝統呪術の力に頼って彼女の愛を取り戻そうとするほど常軌を逸する。 けれども、自分には「家庭」があるから、とアントワーヌを拒絶したセシルも、一人息子のことで医師の夫ナタンといさかいをしたり、ナタンの浮気を知っていたり、ナタンが条件のいい転職をしようとする時に、自分のラジオの仕事を手離したくなくて残ったり、そんなセシルにナタンは冷たい仕打ちをし、息子の連れ合いの双子の妹であるアイシャを誘惑したり、と、実は家庭の中の愛や恋などはとっくに枯渇している。 仕事もあり医師の夫も息子もいて幸せそうに見える「外観」には多くのフラストレーションが隠れている。ずっとモロッコで暮らしているのにアラビア語を解せず学ぼうともしなかったところにもセシルの無意識の宗主国意識が隠れているのかもしれない。 そして、とうとうアントワーヌと期間限定で関係を再燃させることに同意したセシルなのに、思いがけない事件が起こる。映画の冒頭にあった不吉なシーンは現実なのか悪夢なのか分からなかったけれどそれが現実になるのだ。 そうして、時間がとまって、時間の流れが変わって、新しい「時」が再生される。 ラブストーリーというより、人生に関するある種、哲学的な問いかけの映画なのかもしれない。 カメラワークも含めたディティールはさすがテシネーとしかいいようがない。
by mariastella
| 2018-12-17 00:05
| 映画
|
以前の記事
2025年 12月
2025年 11月 2025年 10月 2025年 09月 2025年 08月 2025年 07月 2025年 06月 2025年 05月 2025年 04月 2025年 03月 2025年 02月 2025年 01月 2024年 12月 2024年 11月 2024年 10月 2024年 09月 2024年 08月 2024年 07月 2024年 06月 2024年 05月 2024年 04月 2024年 03月 2024年 02月 2024年 01月 2023年 12月 2023年 11月 2023年 10月 2023年 09月 2023年 08月 2023年 07月 2023年 06月 2023年 05月 2023年 04月 2023年 03月 2023年 02月 2023年 01月 2022年 12月 2022年 11月 2022年 10月 2022年 09月 2022年 08月 2022年 07月 2022年 06月 2022年 05月 2022年 04月 2022年 03月 2022年 02月 2022年 01月 2021年 12月 2021年 11月 2021年 10月 2021年 09月 2021年 08月 2021年 07月 2021年 06月 2021年 05月 2021年 04月 2021年 03月 2021年 02月 2021年 01月 2020年 12月 2020年 11月 2020年 10月 2020年 09月 2020年 08月 2020年 07月 2020年 06月 2020年 05月 2020年 04月 2020年 03月 2020年 02月 2020年 01月 2019年 12月 2019年 11月 2019年 10月 2019年 09月 2019年 08月 2019年 07月 2019年 06月 2019年 05月 2019年 04月 2019年 03月 2019年 02月 2019年 01月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 10月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 07月 2018年 06月 2018年 05月 2018年 04月 2018年 03月 2018年 02月 2018年 01月 2017年 12月 2017年 11月 2017年 10月 2017年 09月 2017年 08月 2017年 07月 2017年 06月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 03月 2017年 02月 2017年 01月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 10月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 06月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月
カテゴリ
全体
雑感 宗教 フランス語 音楽 演劇 アート 踊り 猫 フランス 本 映画 哲学 陰謀論と終末論 お知らせ フェミニズム つぶやき フリーメイスン 歴史 ジャンヌ・ダルク スピリチュアル マックス・ジャコブ 死生観 沖縄 時事 ムッシュー・ムーシュ 人生 思い出 教育 グルメ 自然 カナダ 日本 福音書歴史学 パリのオリパラ 人生観 未分類
検索
タグ
フランス(1318)
時事(785) 宗教(690) カトリック(607) 歴史(419) 本(305) アート(244) 政治(216) 映画(176) 音楽(145) フランス映画(106) 哲学(104) 日本(98) フランス語(93) コロナ(84) 死生観(63) 猫(53) フェミニズム(49) エコロジー(48) カナダ(40)
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ファン申請 |
||