カトリック教会内の性犯罪ペドフィリアをテーマにしたのシノドス(世界代表司教会議)が2月に終了した時のフランシスコ教皇の閉会の辞について、「失望した」「完全に失敗した」との声がフランスのカトリック内で一斉に上がっているのには驚いた。
この閉会の辞は、開会前に用意されていたものだそうで、シノドス中に交わされた意見や議論はまったく反映されていない、閉会の辞というより、開会の辞だった、というもの。
だから最初から結果ありきでこれからのあらたな指針が何ら反映されていない、というもの。
そして、フランシスコ教皇は、ペドフィリアが「沈黙の文化」(教会内だけではなく世間一般全てが性犯罪の被害者に泣き寝入りを促した)であった世代のど真ん中にいたのだから、アルゼンチンでの司牧時代のことも含めて、神に「謝罪」するべきだった、というもの。
21世紀にはいる前にヨハネ=パウロ二世が十字軍やら異端審問やらそれまでのカトリック教会の犯した「罪」について謝罪したことは記憶に新しい。
ペドフィリアについての「沈黙の罪、看過の罪」も、それに匹敵する重大なことであり、トレランスゼロでそれを一掃するにはまず教皇による謝罪が必要だった、という意見は興味深かった。
ゆるしてもらえるとか罪を償えるとかなどの次元とは関係なく、再出発においての「謝罪」ってたいせつだなあ、とあらためて思う。