私がフランスにいながらネットで日本の100冊以上の雑誌を読める環境になってから数年経つ。
もちろん全部を読んでいるわけもないけれど、いわゆる総合週刊誌のジャンルは、何となく毎週タイトルを俯瞰する癖がついた。
日本の「話題」を知りたいこともあるけれど、去年あたりからなんだか医療や薬や食習慣や食べ物に関しての「啓蒙」、というよりセンセーショナルな「警告」記事が目立つようになった。今時、新聞や週刊誌を読む人は中高年が中心だからだと思うけれど、その他は、健康管理や運動の記事、老年の貧困に陥らないための資産運用とか資産管理の話、よい老後施設の選び方、などが続き、さらに、90代の親を介護しなければならない60、70代の前期高齢者あたりをターゲットにしたさまざまな「用意」や「手続き」のガイドから、あからさまにいうと「親が死んだ時に損をしない方法」のようなノウハウが「終活」の名目で紙面を席巻し始めた。
彼は、10 歳の時、D.H.ロニー=エネの『火の戦争』(映画化もされている。邦題は『人類創生』)を読んで、考古学・人類学者になることを決意して、数々の発見をした学者だ。その彼が、人類の進化とは即、「死」の拒否だったと言っている。
それは「死」を意識しないというのではなく、「死」を「未来の生」の出発点として埋葬や葬送儀礼が生まれたこと、そして、美、アートもすべてその、「現世」を超えた「聖なるもの」とつながっていることだ。
また、「介護」自体もその次元に属する。95000年前のアッシリアの墓所を発掘した時に、ある老人と9 歳の子供の遺骸を調べると、老人は歯がなく自力で物を食べる能力がなく、子供も、自力で生き延びることのできない状態で、何年か生きていたことが分かった。つまり、先史時代から、人には、「弱者」を切り捨てるのではなくアシストする文化があったということだ。そして、ついに死が訪れても、次の生や再生の準備を怠らなかった。
そしてそこにはいつも「アート」が伴う。
古代遺跡の洞窟はすべて聖所であり、洞窟壁画は聖なるアートだと彼は言う。
石器時代に武器として削られた石に、シンメトリックな両面の刃がある。明らかに「実用」のための両面刃ではなく、「美しい」からそういう形になった。
ヒトは道具だけでなく「美」もクリエイトした。
そうやって文化を継承し、「歴史」を刻むまでになった人類が、いつのまにか、科学性や合理性の名のもとに「死後」をないことにし、ついでに死もないことにした。
で、例外的な戦争のない世代が消費社会を謳歌した後で大挙して高齢者となる時代にまた「死」が登場したわけだけれど、それ介護や葬儀にまつわるコスパや「お得な情報」「実用」という囲い込みをされている。(さすがにそれだけでは対応できないということが誰にでもわかる災害や事故や犯罪の被害者にスポットがあたる時だけ、「宗教」にもスポットがあたるのだけれど、それはそれでカルトなどに取り込まれるリスクもある。)
これはもう、人類のアイデンティティにかかわる倒錯的な事態だと思う。
「健康ブログ」と化している『たかが、肩』にも関連記事をUPしたのでどうぞ。