5月末のEU議会選挙の結果について、いろいろな人がいろいろなメディアで意見を述べていた中で、何となく考えさせられたのはMarianneに載ったレジス・ドゥブレのコメントだった。
どの都市でも「都心」と言われる地域(フランスの場合は市役所広場のある場所が多い)の投票所ではエコロジーを第一に掲げる緑の党への票が集まったことについてだ。
14世紀末から20世紀まで続いた人間中心主義から、生物中心主義に移行したことで、ここ200年に根付いていた進歩主義を基盤とした左翼が崩壊しつつある。産業に従事する労働者の権利と活字文化に依拠していた社会での政治行動が、脱産業と視聴覚文化の流れの中で変質し、人々が非政治化してしまったひとつの現れが緑の党への票の流れなのだという。
特に、気になったのは、彼が、都心部に住む豊かな人(どの都市でも都心部は地代や家賃が高いから貧困層は住めない)は、欲しいものがすべて手に入るから、恐れるのは環境汚染以外にない、と言っている部分だ。つまり必死に勝ち取りたいようなものがもうない人々が、守りに入ることがエコロジー志向に現れている。(きっと必死に得たいのは健康長寿で、そのためにも環境汚染は困るというわけだろう)
そして、レジス・ドゥブレの思考ツールであるメディオロジーのトレンドは、もはや、「匿名の多数者が議論を戦わす合理主義」ではなく、「問題の個別化と価値観の女性化という心と共感」に移行しているという。
こう言われてしまうと、思い当たる部分もある。
ある意味で、マリー・アントワネットがプチトリアノンを作った田園趣味のような現象とも通じる。
このジレンマはいつも存在する。
黄色いベスト運動の初期からよく言われたのは、
マクロンはエコロジー政策の一環として燃費に課税などしているが、自分たちの問題は、環境汚染による「世界の終末」などではなく「毎月の終わり」の赤字をどう切り抜けるかなのだ、
ということだった。
でも、先日触れたビル・ゲイツの財団ではないけれど、金があり余っているような人が大きな救済事業をしたり、月末の支払いを心配しなくていい人たちが環境に配慮したりというのでなければ、それこそ世界は破滅に向かうだろうとも思う。
といっても各種の問題を個別化してばらばらに肩入れするロビー化の傾向は、共同体同士の格差や分断につながるから避けなければならない。
するとやはり「ベーシックインカム」的なものが対策になってくることも理解できるけれど、「全てが手に入る人たち」への訴求力はなさそうだ。
どちらにしても、ル・ペンかマクロンか、つまり「ファシズムか、それとも金持ち優遇のネオリベか」という「選択」以外を人々が無意識に求めたのが緑の党の躍進だったのなら、多少は期待できるのかもしれないが…。