前にも書いたけれど、ここ数年、日本の雑誌百冊以上にネットでアクセスできる環境にある。
もちろん全部を見ているわけでもないし、定期的に開く雑誌も、目次を見て気になったところだけをチェックする。
その中で、『週刊女性』に連載の「サトリのココロ」というのがあって、103回目が日蓮宗妙常寺の37歳の住職本良敬典さんの話だった。このコーナーには若いお坊さんたちの紹介がいろいろあって興味深い。
フランスでも、今の時代、若い司祭がどうして聖職を志すようになったのかという個人ヒストリーには啓発されるものがいろいろあるけれど、日本の若い住職のほとんどはお寺に生まれて親の後を継ぎ、妻子もいていわば家族経営、みたいなケースが多い。それはそれで、どうしてその敷かれたレールを受け入れることになったのか、また、新しい道をどう模索するかなどの問題意識はさまざまだ。
今回の本良さんは、放浪の旅に出て、南極に向かう荒海の航海中に船がどんなに揺れても重心を取り戻す、バランスをとるための中心はなくならない、という体験をした時に、人間にも、「絶対に救われる仏様の種がある」と身をもって知ったという。
心が揺れると仏さまの種も移動し、見失うこともあるけれど、その種があるのは100% 分かると。
辛いことは辛いままで、その中で自分の心の声に耳を傾けて選択すると、きっと幸せが見つかると。
私の周りのフランス人仏教僧は、「執着するのがつらさを生むので、執着をなくせば苦しみが消える」というような言い方をするので(もちろんそれはそれで間違っていないにせよ)、この若い僧の言い方がむしろキリスト者と似ているのが印象的だった。つまり、キリストは、たとえ見失っても必ずあなたの心の中にあり、他の人の心の中にもあるわけで、それが「仏縁」ならぬ「キリスト縁」とでもいう支え合い、助け合いにつながるという感じだ。
どの国のどの文化に生を受けるかで表現は変わってきても、若い宗教者がこういうことを言うのを読むと、彼らの「船」が荒波で重心を取り戻さずに難破したり転覆したりしないことをすなおに祈りたい。