昨日の記事で、グレタさんを持ち上げる大人たちのことを書いたけれど、実際、インターネットのおかげで情報空間が一見フラットになったせいで、世界の縦型構造が壊れてきた。グレタさんは自分はアスペルガーだから白と黒しかない、グレーはないと言っているけれど、実際の情報社会は、匿名性もあるし、いろいろな二元論が壊れつつある。男も女も、黒人も白人も、ディープ・エコロジーでは人間と動物の区別さえ曖昧になる。それはグレーの曖昧ゾーンのグラデーションではなく、グレー一色という感じだ。
その中で、大人と子供も同じように発信する。
子供の権利条約も国際合意となる。
グレタさんも大人を叱責する英雄になる。
でも、大人と子供は違う。
例外は別として、女は男にならないし、黒人は白人にならないし、動物は人間にはならない。
でも、子供はいつか大人になる存在だ。
自分も子供という「当事者」時代を経てきた大人は、子供がよりよい社会に生きる大人になれるように努力する使命がある。
すぐにイデオロギーの即戦力として共闘するのはよくないと思う。
それよりも深刻なことで考えなおすべきものがあるだろう。
「いじめとテレビ」についてこういうブログを読んだ。
深刻な問題だと思う。
フランス系のいういわゆる「お笑い」は、アングロサクソン系もそうだと思うけれど、風刺が多いし、スタンドアップ・コメディが主流だ。しゃべっている情報量や語彙がすごく多い。自虐ネタはあっても、全体としてすごく頭を使っているだろうなあと思わせる。
日本でも落語や講談はすごいと思うけれど、いわゆるボケと突っ込み系のコントで、相方をけなしたり頭を叩いたりするのはすごく不愉快だといつも思っていた。
まあ、見なければいいのだから、と思っていたし、正直言って、バラエティ番組もほとんど変な方向にガラパゴスだなあと思っていた。
で、日本に滞在している間にはほとんど放送大学しかみていなかった。放送大学には興味深いものがたくさんあった。
最近、滞在先のテレビでは放送大学が視聴できなくなった。
だから関心を持って見るのは日曜美術館と歴史ドキュメンタリーと健康番組だけだ。
私はフランスの自宅にはいわゆるリビングにもダイニングにもテレビを置いていないので、ニュース番組のはしごとたまに映画を観るくらいで、後はラジオとインターネットだ。
でも、多くの家庭にはリビングやダイニングにテレビがあって、子供たちも見ているのだと思う。
今までは、他人が何を視聴していようと関係ないと思っていたけれど、この秋葉忠利さんのブログを読んで、「他者をリスペクトしないお笑い」は規制するべきだと思った。
グレタさんの問題とは真逆にあるように見えるけれど、次代の大人に対する私たちの責任を痛感させられる。