フランス語が日本語と同じ感覚で読めるようになって、しかも、gallicaで古い文献なら何でも読める時代になって、過去の出来事が驚くほどの実感で迫ってくることがある。
赤十字の創設のきっかけになったアンリ・デュナンの『ソルフェリーの思い出』を読んで(恥ずかしながら、ソルフェリーノと聞いても今まではパリのメトロの駅がまっさきに浮かんでいた私、)その迫力に圧倒された。
彼はこの本を1859年のソルフェリーノの戦いの3年後に自費出版して政治家や軍人たちに配った。
赤十字つながりで、デュナンがにわか看護師となって負傷兵を世話しようとした修羅場が有名だけれど、何よりも、肉弾戦の戦場で、兵士たちが、最後の最後まで、「生き延びる」ことではなくてただただ戦うこと、相手を破壊することしか考えられなくなっている様子が怖い。自分もひどい傷を負っているのに敵の喉に文字通りくらいついて噛みちぎろうとするなど、勝敗というより殺戮本能、破壊衝動だけがあるかのようだ。それは馬たちにも伝染しているようで、興奮していななきながら敵の馬に噛みついていくシーンもある。負傷した将校を教会に引き入れた後で敵が来て大きな石でその将校の頭を打ち砕き脳漿が飛び散るシーンなど、とにかく、死ぬまで、完膚なきまで攻撃がやまないシーンもたくさんある。
デュナンは当時のフランス領アルジェリアで土地を購入する許可をもらいにナポレオン三世を戦地まで追ってきたのだが、はからずも、従軍記者のような迫真のレポートを残すことになった。
戦地にいない人々にはまったく想像もつかないそのリアルが公開されたことで、スキャンダルとなり、本の出版の翌年に将軍や医師ら4人と共に負傷兵救済国際委員会を発足させることができた。その翌年に「戦場で敵味方の区別なく負傷兵を手当てする」という赤十字条約が締結された。筆の力が人をここまで動かすことができる。
そのためにはただの従軍記者ではなく、中立なジャーナリストの目が必要で、そこに「人間を人間」として見る必要がある。戦場では、敵はもちろん、すべての兵士が「人間」でない「戦闘要員」で、「いのち」に対する感覚が完全に麻痺している。
私は映画でも残虐シーンとか暴力シーンが苦手でできるだけ見ないようにしているのだけれど、勇ましさの誇示とか戦意高揚とかではなく「現実の修羅場を記録して知らせる」というショック療法なくしては、赤十字のような人道機関は陽の目を見なかったんだなあ、と思う。
そうなると、原爆記念館だとか、アウシュビッツだとか、さまざまな戦争犯罪を語り伝えることの大切さがあらためて分かる。そこで肝心なのは、誰と誰が敵と味方として戦ったのかとか、加害者と被害者という視点からの告発や非難ではなくて、命への罪、人類への罪、という視点で、どこでも誰でも時と場合によっては自分の尊厳も捨て去り、他者の尊厳もふみにじり、「非人間」になってしまうことがあるという現実の認識なんだろう。
AIが人間を超えるかどうかなんて言っている場合では、ない。