中にようやく、コワフが4/14-12/8まで公開、とある。でも、「昔は有名で今では少し忘れられた」、という説明付き。1905年の政教分離法で、カテドラルはカトリック教会の所有物ではなく国に没収されているという歴史もある。


この下をくぐり抜けられるようになっていて、下に立ち止まってお祈り(お願い事?)をするのだそうだ。
La sainte coiffe de Cahors で画像検索すれば聖遺物容器もよく見える。
19世紀の金貼りのブロンズで、天使、カオールの司教聖デイディエ、シャルルマーニュ、教皇カリクスト二世が配されている。
うーん、こんなある意味でビッグな聖遺物が、こんなところで、全体に漂う無関心の中できらきらと輝いているのは不思議。
4/27に、80年ぶりに「行列」があった時は報道された。
でも、ここでも、これがイエスの空の墓にあって、弟子が「見て、信じた」と言われる布であるのかどうかという真贋とは関係なく、歴史、伝統、信仰に対するレスペクトが大切なのだ、とわざわざ解説されている。
イエスを身近に感じる、という感激する人もいる。
おもしろいのは、実際に聖骸布の研究に熱心な人は、神父であっても、別にこれが本物だということに信仰をかけているわけではなくて、純粋な科学的歴史的好奇心にかられているということだ。聖遺物の真贋はキリスト教の信仰には関係がない。
私がこれまでにもしつこく書いてきた釈迦の真骨もそうだけれど、ある種の人々がそれらを崇拝の対象にしてカルトを形成するとか、巡礼の経済効果だけを狙うとかいうケースがあるわけだ。
そして、これも、自己暗示効果なのか、実際に、多くの「奇跡」が次々に起こったという記録が積み上げられてくると、ますます、その「モノ」のオーラは増す。
せっかく「効験あらたか」な聖地に行ったのなら、「ダメもと」でいろいろお願いしておこう、というのは人情だとも思うし、その聖地が新興聖地でなくて何百年もの歴史を刻んだところなら、別の感慨もある。
ただ、今回の聖地の中でも最もメジャーなロカマドゥールの黒い聖母のチャペルについて、「聖ルイも聖ドミニコも、聖ベルナルドゥスも、あの人も、この人も、みーんなここに巡礼に来たんだよ」と私が同行者に話したら、同行者からひとこと、「その人たち、みんな、死んだね」と言われてしまった。
そりゃ、そうですけど。
というか、彼らは別に不老不死の薬を求めてきたわけじゃなかろうし。
イギリス王のヘンリー二世は黒い聖母に祈りを捧げて病が癒えた感謝に巡礼したのだし、スペインやらポルトガルの王様たちも黒い聖母の戦旗を掲げてイスラム教徒との戦いに勝ったからと言って感謝の巡礼をしている。
私は個人的に、このコワフがイエスの顎を支えた布だという確率は大きいと思っている。何千年も前のエジプトの王たちの墳墓や遺体や遺品でさえ保存されたのだから、すでに預言者だといっていイエスを生前から崇めていた人たちが遺品を保存しておこうとして受け継いでいったとしても別に奇跡的だとも思えない。
だから、どうした、ということもある。
でも類推魔術と同じで、個人の遺品に思いをかけたり、一種の依り代にしてしまう文化というのもまた普遍的にあるから、イエスの聖骸布に寄せてきた人々のサイコエネルギーみたいなものは凝縮しているのかも。
(続く)