時計台。学生の頃よりも、テレビで見た69年初めの放水シーンを思い出す。

驚いたのは、とにかく観光客や子供連れがたくさんいて、関連グッズのブティックもあり、食堂もいろんな人でにぎわっていること。ベビーカーを押している人も少なくなかった。みんながスマホで撮影している。東大ってこういう観光コースだったのか? セキュリティは?
警備員がいて身分証明書を提示しないとアクセスできないソルボンヌのことが思い浮かぶ。
東大が学校法人になって、産学共同も当たり前、東大が経営する株式会社まである。
東大生のクイズ王、とか、東大生がタレントみたいなブランドになっているようだから敷居が低いのかと思うけれど、この平和ムードはやはり、信じられない。
機動隊に襲われている香港の大学や大学生のことを考える。
会場の内部。

休息時間には三四郎池へ。
鯉がたくさんいて、恋に差をやる親子連れもいた。ほんとに公園みたいだ。

講演の中身だけれど、まず地震研の先生が、イタリア地震でのワイングラス・インタビューの話をしてくれた。正式な記者会見でないパーティの席で、地震予測を軽いものとした研究者が責任を問われて有罪になった、という話だ。「専門家」は最悪の予測を口にして、それが外れても文句を言われないけれど、楽観させて最悪の時代が起きると糾弾される。
医師が、患者に悲観的な「余命宣告」をしがちなのも、そういう心理をふまえているからなのかもしれない。
でも、なんとなく安心? したのは、結局大地震の予測など不可能だという話だった。
500年、1000年のスパンなら予測可能だけれど、よく言われるような「今後30年」というのは絶対に無理だそうだ。では、よく耳にする「今後30年に南海トラフ地震が起こる確率80%」なんていうのは根拠がないわけだ。
と言っても、それは、地震が今日起こるか明日起こるか、いつ起こるのか分からないというのに過ぎない。でも、地震への恐怖は、交通事故やテロに遭遇するような漠然とした恐怖と変わらないということだ。最低限の備えはしても、あまりびくびくする必要はない。
これはそのあとで藤原帰一先生が話したことにもつながる。
すなわち、「全てのことを平等に予測しようとするのではなく、限りを設定する」というものだ。未来予測としては、来るべきリスクにどう対応すればいいかを検討するだけではなく、プラスの目標をもって共同の目標を設定してポジティヴにその実現を工夫すればいい。
それはエコロジーの考え方にも役に立ちそうだ。
最悪のシナリオばかり言い立てて、それをどう防ぐか、ばかりでなく、よいシナリオをどう実現させるか、も考える必要がある。
予測「設計」というものもある程度必要なのかもしれない。
すべてをとり込むことはできない。
だから、東京オリンピックの最中に大地震が起きるという「想定」はされていないのだろうなあ。
参加者は圧倒的に、リタイアした男性、という感じの人が多い。いびきをかいて寝ている人もいた。年配女性の二人連れというのも。年配のカップルもちらほら。
ざっとみて年配女性がおしゃれではない、というところが珍しい。東京の美術館だの劇場だのデパートだの町だの、すれ違う女性は年配者でもみな小ぎれい、おしゃれ、洗練されている、というイメージだったからだ。じゃあ、こんなものに出席している女性って、やっぱり、東大の卒業生? だから自分に自信があって、外見を飾る必要がないとか? などと、偏見丸出しの想像をしてしまう。
本郷三丁目の駅前や、本郷通には昔の面影もあった。
ほっとする。