75人のキリスト者 その 12 ノエラ・ルージェノエラ・ルージェの場合 「赦す」ことができるかどうかについて、いつもテーマになるのは、第二次大戦下でのナチス政権による「死の収容所」における加害者と被害者の関係だ。 もうすぐ100歳になるノエラ・ルージェは、自分を直接に迫害したフランス人ゲシュタポの助命を願ったことで、彼からの被害を受けた人や家族から恨まれさえすることになった。 共にレジスタンス運動に携わっていたノエラと彼女のフィアンセは、1943年の7月に逮捕された。数日前に逮捕されたフィアンセのアドリアンはゲシュタポの一因だったジャック・ヴァサールという男に拷問され、銃殺された。 ノエラはド・ゴール将軍の呼びかけに応えてレジスタンス活動に入っていたが、両親には黙っていた。両親の家に踏み込んだヴァサールは、ノエラを逮捕、拷問し、1944年の1月にノエラを主に女性を収容したドイツのラーフェンスブリュック強制収容所に送りこんだ。 そこで見たものはまさに地獄だったけれど、ジュヌヴィエーヴ・ド・ゴール(ド・ゴール将軍の姪、後にパンテオンに移葬される)やドゥニーズ・ヴェルネイ(シモーヌ・ヴェイユの姉)と共に支え合って生き延び、ガス室を二度免れて故郷に戻った時は32kgしかなく結核をわずらっていた。 母親は娘が無事に戻れば毎日ロザリオの祈りをささげると聖母に誓っていた。生きる力もなかったが、殺されたフィアンセからの手紙が渡され、そこには、「もう僕はいないのだから、僕を忘れて生きてくれ、傷を癒して、新しい愛を生きてくれ、幸せになってくれ、僕のためにそうしてくれ」とあった。生きること、癒えること、愛すること、幸せになること、アドリアンと神のためにそうすべきだと思った。 療養先のスイスで知り合った軍人アンドレと結婚するが、彼の家庭はプロテスタントで、兄は牧師だった。アンドレの家族はカトリックのノエラを家族に迎えることに抵抗があったけれど、その後、牧師であるアンドレの兄と神父であるノエラの兄が共同でエキュメニカルな典礼を司式するまでになった。二人の息子にも恵まれた。 ところが、戦後17年も経ってから、突然、自分の母親に匿われていたジャック・ヴァサールが逮捕されたというニュースがジュネーヴで暮らしていたノエルのもとに入る。彼はまずドイツに逃亡して死刑宣告を受けた後フランスに戻って実家の屋根裏で17年間逼塞していたのだ。 1965年10月のフランスでの法廷でノエルも犠牲者の一人として証言台に立った。310人を収容所に230人を殺したと認定されたジャック・ヴァサールは、表情も変えず、傲岸不遜な態度を崩さなかった。そのことはノエラに衝撃を与えた。それでもノエラはすでに死刑廃絶の運動に加わっていた。自分たちに与えられた聖なる命は自分たちに属するものではない。「殺すなかれ」は、彼女にとって絶対だった。 当時のフランスにはまだ死刑制度はあったし、ゲシュタポの残党の死刑は必至だった。ノエラは裁判長に手紙を書いた。 人間の心身の尊厳を冒すことの過ちに対する感受性を自分は収容所で研ぎ澄まされた。それと戦うには、たとえ過ちを犯した者の命といえどもそれを奪う権利はない、という側に私は与する。病気と闘うべきで病人を殺すべきではない。 罪と戦うべきで罪びとを殺してはならない。死をあまりにも身近に見てきたノエラは、たとえ法の手を介するにしても自分が死を与えるのは不可能だった。過去の殺人者と同じ武器を手にすることになる。何千人の犠牲者や苦痛の前に、一人の死刑に何の意味があるだろうか。 けれども、ノエラの声は聞き入られなかった。死刑が宣告された。 それでもノエラはあきらめずにド・ゴール将軍に手紙を書いた。 私は生と死を司る唯一の神を信じます。ヒューマニズム精神から近いうちに死刑を廃止するであろう私の国を信じます。(…)ジャック・ヴァサールの極刑を免ずる大統領の権限をお使いください。 ノエラの声は届き、ジャック・ヴァサールは終身刑へと減刑された。 ヴァサールの死刑を望んだ人々からノエラは「裏切者」のように非難された。 それだけではない。ノエラは獄中のヴァサールに手紙を送り続けた。彼の母親にも手紙を書いた。彼の心の中にも、人間らしい良心の呵責や後悔の念がどこかにあると信じたかったからだ。彼は返事を書いてきたが、自分の不運を嘆くばかりだった。謝罪も感謝もない。やがて、ポンピドゥーによって20年懲役に減刑されて、1984 年に出所してからはぴたりと返事が来なくなった。 それでも、ノエラは、後悔もしていないし、人間が人間に与える暴力に対して終わることのないレジスタンス運動に取り組み続けている。信仰があるかないか、それだけだと思っている。 考えてみればとてつもない話だ。 このジャック・ヴァサールという人、もともとフランス最高のビジネススクールでのエリートで、ドイツ語が堪能でドイツ軍と接触してしまった。その後で、なんの迷いもなく、ユダヤ人やレジスタンス闘士を拷問し殺しまくったというのもすごいが、ハンナ・アーレントではないけれど、その悪に至る「ハードルの低さ」にくらくらする。 しかも、獄中で、ロシア語、日本語、サンスクリット語を含む八か国語をマスターし、1974年には獄中でドイツ人司書と結婚し、出所してからは妻と共にハイデルベルクで暮らし、ドイツ国籍も獲得したという。 2009年に88歳で死んだ。それがフランスで報道されたのは2014年のことだ。 ヴァサールを死刑から救ったノエラは彼と同年配で、来年100歳になるが矍鑠として世界中の不当な暴力と戦い続けている。 「戦争の怖さやナチスの罪を訴え続ける生き証人」としてではなく、最悪の暴力を知った後でこそ、命の根幹である人間同士の理解とリスペクトの推進者であるべきだ、というのがノエラのメッセージだ。 憎悪の罠に囚われてはならない、とノエラは収容所の生き残り仲間に呼びかけてきた。 すばらしい人だと思う。 でも、ド・ゴールの心を動かし、レジスタントの闘士らの心も動かすノエラの言葉は、ヴァサールの心は動かさなかった。 それでも、キリスト者としてのノエラの信念は一貫している。 いろいろなことを考えさせられる。 (これで、『La Vie 』誌 No 3877-3878合併号に載っていた「75人のキリスト者」から私が自由に抽出した12人へのコメントシリーズはひとまず終わります。)
by mariastella
| 2020-01-30 00:05
| 宗教
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