12/5に『女のキリスト教史』(ちくま新書)を出したけれど、今まで、あまりにも自明だったのに意識化していなかったことがあった。
それは新約聖書のパウロの『ローマの信徒への手紙』の第10章を読んでいてふと思い至ったことだ。
ギリシャ語を使うローマ市民であるユダヤ人パウロによって、それまでユダヤの民族宗教である一神教が、「ユダヤ人でなくてもキリストを信じる者は救われる」という普遍宗教として認知されていった。
その道も、十字架上の死と復活という「非合理」な「信仰」に依っていたから平坦ではなかった。
同時に、イエスや12使徒たちがユダヤ人であり、キリスト教はユダヤ教の進化形として展開したので、「非ユダヤ人」をキリスト教のコミュニティに迎えるかどうかというのも大問題だった。
ユダヤ人は、今日に至るまで民族アイデンティティが強い。
キリスト教が「非ユダヤ人」を「区別しない」というのはまさに大きな転換点で、パウロはそれを正当化するためにさまざまな言説を残している。
それは分かっている。
でも、ざっと見ると、ユダヤ人と非ユダヤ人というのは、「割礼」しているかどうか、で分けられている。
聖書本文検索のサイト内で「割礼」のキイワードで検索すればよく分かる。
で、割礼を受けていても神の教えに従わない者と、割礼を受けていなくても教えを守る者とはどちらが「義」であるかということで、「形」ではなく心、信仰が真の価値、救いを約束するという話になる。
これはまあ、ユダヤ人にとっては難しい問題で、一部だけが、イエスをキリストとして認める新しい共同体へと「発展的解消」したわけだ。それには「非割礼」者をそのまま受け入れるかどうかがネックになった。
というのは、キリスト教史をかじったものなら誰でも知っている。
でも、よく考えたら、当然だけれど「割礼」って、男だけを念頭に置いたものだ。
もちろん父権的社会で、女には魂がないと言われたこともあったし、パウロも妻は夫に服従せよなどと言っているから「女の救い」はまったく想定されていず、論点にならなかったのだろう。
(イエスはまったく別で、そういう父権的社会の中で、性差別どころか社会階層の差別も否定した革命的な人だった。だから不都合であり、殺された。)
でも割礼を受けた者を共同体に受け入れるかどうかなんていう初期キリスト教の議論は、要するに、「男」を対象にしたものだったわけだ。言い換えれば、女性たちは、差別されていたかもしれないけれど、「区別」されなかった。非ユダヤ人の女性がキリスト教に帰依する時の「割礼の有無」というハードルは、なかったのだ。だから、初期のキリスト教の共同体には女性が多かったし、非ユダヤ世界では実際に女性たちを通してキリスト教が広がったというわけだ。
ユダヤ人というのはユダヤ人を母に持つということで認定されるという。父が誰かというのは確実ではないから母に依拠すると言っても、その「母」のユダヤ性というのは、実は曖昧だ。
厳密にいえばずっと母系だけをたどっていくことになりかねないけれど、そうではなくては、しっかり父系性なのは、「女性」が数に入っていないからだともいえる。
割礼を受けていない者は数に入らないわけだ。
そうだったんだ、とあらためて思いながら、KTOTVで女性学者二人がキリスト教と女性の歴史、カップルの社会史について語る番組を観た。
参考にリンクしておきます。