以前の記事で、キリスト教は、特にローマ・カトリックは、父権制社会に根付いた男性主権宗教でその実態は普遍的女性宗教、という一面の見方を書いた。
それについて、キリスト教に、本来の自由平等平和主義の普遍宗教としてその使命を果たさせるには、もっと「男性的」な面を表に出すべきだという逆説的な意見がある。
フランスの「ごく平均的」な「ムスリム系移民子弟」だったメディ・ジャーディのカトリック改宗インタビューだ。
今年、受難のキリストと同じ年になる若手の俳優だが、彼の「回心」は多くの聖人を含む「回心」ストーリーよりもまっすぐで、すんなり理解できる。それを語る彼の雰囲気がまた好感度大だ。
彼はフランスの普通のムスリム家庭で育ち、週末にはコーラン学校に行き、日に五回の祈りやラマダンも15歳くらいまで守っていた。
その後で、福音派系プロテスタントと出会い、改宗した。プロテスタントへの帰属は、イスラムへの帰属と同じく、信仰を宣言するだけでOKだったので簡単だった。でも、その後で、「福音書」を読むようになって、イエスの教えの先進性に驚いた。イエスは友人となった。後に、ある人に修道院での黙想会に誘われて、聖体礼拝を見た時、友人イエスの現存を感じて、カトリックに改宗した。
その彼がカトリック洗礼の障害となっていることとして、洗礼を受けるために一年半もかかったことを挙げている。
また、洗礼のためのカテキズムの勉強に天国についての話がほとんどないことも指摘する。彼のような普通のムスリム家庭にとってのイスラムは、天国に行けるかどうかのイメージがある。いわゆるジハディストが、聖戦で不信心者を殺し殉教すると天国では美女に囲まれて…などというやつだ。
だから、カトリックは、天国とは何か、天国に行ける条件(弱者に寄り添う)というものを徹底的に表に出すべきだ、と言う。
確かに、今のカテキズムの現場では「弱者に寄り添う」とは言っても、「天国」という言葉はほとんど強調されない。「信ずるものは天国、信じない者は地獄」式の中世的言説はとっくに古くなっているからだろう。「天国」など語ると、無神論知識人から「蒙昧」扱いされる。
でも、ムスリムからの改宗者にはそれが重要だとは気がつかなかった。
もう一つは、カトリックはいわゆる信者獲得のための「宣教」「布教」を表に出さなくなってから久しい。
西ヨーロッパにおける「蒙昧」と「啓蒙」の戦いの歴史の中で、ある意味で成熟した宗教になっていて、聖人洗礼のためにはかなり高度な「信仰理解」を要求される。だからハードルも高いし、何よりも積極的な「宣伝」をしないから、届かない。で、カトリックへの会衆の入り口となっているのが積極的に布教活動するプロテスタントだというのだ。そこで福音書を知り、イエスを知る。さらにイエスと共に歩むうちに、カトリック教会での「聖体礼拝」に出会い、聖体の中のイエスの現存を知り、カトリックに改宗する。
それがメディ・ジャーディの例だ。
彼は、カトリック信徒となってから、フランスを愛するようになり、フランス人のアイデンティティを強く感じるようになったという。公教育では革命や共和国主義を習ったけれど、そのルーツにあるキリスト教、カトリック教会を知ることで、フランスをより愛するようになったという。
また、福音書のイエスが「男らしかった」ことも発見した。
鞭を振るい、台をひっくり返して神殿の商人を追い出したエピソードも有名だ。
それなのに、キリスト教が主として「男性聖職者」を取り巻く女性の宗教として機能してきたせいで、特にフランスでは19世紀のサン・シュルピス主義の情動に訴える女性的イメージがあったせいで、「イスラム」文化圏出身の男たちへの訴求力がない。
もっと、ターゲット別のマーケティングをするべきだ、ということにもなる。
なるほどなあ、こういう見方もあるのだなあ、と感心した。