1月中旬、ストが続いていたパリで、満員のトラムウェイに乗って疲れ切っていた時、手持ちの雑誌に、2019年のノーベル文学賞を受賞したオーストリアのペーター・ハントケの言葉がコメントされていたのを読んだ。
1989年に出したエッセイ『疲労について』で、ハントケは疲れのことを「友」と言っている。疲れによって、いつもは反芻してばかりのエゴという重荷が取り除かれて、周囲の物事の新しい見方ができる。世界が沈黙のうちに現出すると言う。ハントケにとっては、まるで疲れが形而上的なエクスタシーであるかのようだ、と。
うーん、確かに、疲労で批判精神とかが後退して、眠りに就く前のようなアルファ派が出るとか、瞑想状態に近いとか、そんな感じなのか。
疲労が蓄積すると、ただ「ああ、疲れた、もう、限界」などとマイナスにとらえがちだけれど、こういう風に「疲労が休息を必要とする」状態をポジティヴにとらえる人もいるんだなと思ったら、少し相対化されて楽になった。
でも、同じ雑誌に、「猫は疲れていなくても眠る」というのがあった。食欲などを満足させれば、疲れていなくても丸まって眠る。
また、人間の一生は、毎日眠ることによってしか成り立たない、言い換えると命は断絶の反復でしか成り立たないとも。
これはけっこう怖い。私はごく小さいときから、眠る時に意識を失うのが怖くて、その瞬間を観察したくてなかなか眠れなかった。就眠は小さな死だとも思っていた。
(そのうちに夢をコントロールできるようになり、パラレルワールドを続き物で体験できるようになったので、寝るのが楽しみになった時期もあった。)
ハントケのエッセイは日本語には訳されていないようだ。
パリ近郊に住んでいて、フランス文学も翻訳し、フランス語がペラペラだというのも初めて知った。
映画でコンビを組んだヴィム・ヴェンダースもフランス語が達者で、二人でフランスのメディアに答えている。ヨーロッパ内の文化的国境のなさ加減は羨ましい。
(ノーベル賞が決まって自宅の庭にメディアを招いている映像があった。ここでもフランス語で答えている。)