Un Peu Beaucoup Aveuglément
1月にTVで視聴した映画。
クローヴィス・コルニヤック(主演で監督)、メラニー・ベルニエ。
『少し、たくさん、盲目的に』というタイトルは、花びらをちぎって「少し、たくさん、情熱的」などと「恋占い」をする言葉をもじったものだ。「盲目的」というのは、相手の顔や姿を見ないままで、壁の薄い隣のアパルトマンで声を聴くだけで愛し合うというシチュエーションにかけている。
この予告編ではまったく聴こえてこないけれど、いつも緊張してしまう優等生的ピアニストがオーディションを受けるというのがクライマックスだ。落とされそうになった時に、顔を合わせたこともない「隣人」のアドヴァイスを思い出して、ひっつめ髪を解き放ち、上着を脱いで、感情をこめてショパンを演奏し、審査員や応援の家族らを泣かすことができた、という結末がある。
彼女の教師は「正しい姿勢」を強要する権威的な男で、彼女の変貌に驚きはしてもそれを自分への反抗として捉えるので満足はしていない。
「隣人」は、彼女がテクニック的には完璧でもまったく心がこもっていない、自分を捨てて、ショパンが何を考えていたかその内側に入って行けというようなアドヴァイスをした。実は彼の父親は音楽家で彼は子供の時からオペラ座についていった、という伏線がある。ラスト近くで、彼がゲーム考案で引きこもっているのは7年前に恋人を亡くした反動で、もともとの社会不適応者ではないことも明かされる。
ちょっとひねったシチュエーションのラブコメとしては、フランス映画というよりは、日本映画や韓国映画の枠組みに似ているなあ、と最初は思った。男には唯一つき合いを続けている親友、女にはタイプが異なる奔放な姉がいて、このふた組が壁越しに会食するシーンなどもおもしろい。
全体として、演劇的な演出だ。ピアノ演奏シーンがなければいい舞台劇になっただろう。
で、バロック演奏者の私としては、どうしても、感情移入して「芸術は爆発だ!」的な演奏とか、ロマン派的奔流には消極的なので、こういうわかりやすい、「感情を込めたら聴衆は泣く」というステレオタイプを映画にする表現そのものに興味があった。
ロマン派とはいえショパンだ。和声的にもバロックの知的財産を完璧に受け継いでいる。
以前に、愛や信仰も「知情意」の三つのアスペクトのバランスからなると書いた。
https://spinou.exblog.jp/30665061/
演奏には、技術プラス知情意の三つが必要だ。
でもこの映画では、「情」がすべてを覆いつくしてあふれることで聴衆の情動を動かし落涙させることになっている。ヒロインがそれまでの優等生的葛藤や守りの姿勢から出て真実の生きる喜びを表現できた、みたいな物語になっているのは分かるとはいえ、変な話だけれどそこにポピュリズムの安易さを見てしまった。
前にショパンの演奏の思い出について書いたことがある。中学生の頃に聴いたルービンシュタインの演奏の「再現」についてだ。
シューマンのトロイメライを弾く生徒に、近頃なら、私がつい聴かせてしまうのがyoutubeにあるホロヴィッツの演奏だ。ここでも聴衆は涙を流している人もいるけれど、60年ぶりにペレストロイカのソ連に戻ってモスクワで演奏したピアニストの全生涯が知情意に凝縮されて開示されているかのようだ。
(でもルービンシュタインがアンコールに弾いたあの魔法のようなローテンポの最初の4小節は、残念ながら youtubeでは見つからない。あれはやはり、あの時のあの場での中学生の私がはじめて「ポーランド」を知った体験だったのだろう。それがポロネーズやマズルカなどではなくワルツだったのは今思っても不思議だ。)