先週『ジョジョ・ラビット』を観た。
NZの映画監督が自ら「空想上のヒットラー」に扮して撮ったユニークなコメディ。
ナチスのイデオロギーと国家主義にすっかり洗脳されている思春期少し前の多感な少年が、「戦闘での蛮勇」で「男」になるのではなく、愛を知って「人」になるのを描く一種のビルドゥングスロマンでもあり、ナチス全体主義の訓練シーンなどはメル・ブルックス風のドタバタで、そこに友情と親子愛と初恋ストーリーが配されて「感涙」ものに仕上がっている、というある意味で贅沢な映画だ。
今のフランスの若者にはナチスによるユダヤ人ホロコーストの歴史を知らない者も少なくないという。
アウシュヴィッツを必死で保存しているのに、「ガス室はなかった」という歴史修正主義者が消えることはない。
その反対に、ドイツ人のように知性ある国民がヒトラーのような男にあれほど熱狂したという歴史も、彼ら自らが撮影して広めたプロパガンダ映画の再視聴なしには、とても信じられない。このジョジョラビットの映画にも、ところどころ、涙を流してハイルヒットラーを叫ぶ男女の姿の記録映像が挿入される。
ある意味では、「ガス室」よりも怖い。ユダヤ人殺しに直接に加担できない小心の小市民だって、ヒットラーをまさにアイドル(偶像)のように崇めて群衆と一体化して叫ぶことのハードルはとてつもなく低いだろうと分かるからだ。
最初のこのような熱狂シーンに流れるのがビートルズの「I Want To Hold Your Hand"抱きしめたい」であるというのも、この歌が私の耳に記憶されているので、なんだかアナクロニックな同時代性を感じてくらくらする。
スカーレット・ヨハンソンが生き生きと輝いているし、挿入される絵やアニメ、カラーの工夫やカメラアングルも楽しめる。
日本人としては、「今ドイツの味方は日本だけだ、でも日本人はアーリア人ではない」などというセリフに反応してしまう。
フランスはと言えば、ユダヤ人の少女が自由になったらパリへ行く、という言葉でシンボライズされる。ほんとに最終的にフランスはうまく立ち回った。
で、この映画をいっしょに観たフランス人(みんなもちろん戦後生まれ)に「フランス人としてどう観たか」と質問したら、「この映画は今だからこそ可能な映画だと思う」という答えがあった。
今だから、ドイツ人もフランス人も、アメリカ人も、(多分ユダヤ人も)共に同じ地平で笑える、ということだ。
「記憶喪失」や「事実の隠蔽」や「歴史の改竄」ではなく、過去の敵同士が戦後なんとか維持してきた長い平和の中で築いた文化の成熟があったからこそ「普遍主義的メッセージ」を笑いに託すことが可能なんだろう、とあらためて思う。