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L'art de croire             竹下節子ブログ

『ショーシャンクの空に』フランク・ダラボン(1994)

TVでフランク・ダラボンの『ショーシャンクの空に』(1994)を視聴。

この邦題がいまいちだけれど、フランス語のタイトルは『脱走者』(複数)だから、それもネタバレというかなんだかなあと思う。しかも複数だから、微妙な意味合いを示唆しすぎだ。

予告編。

私は何度も書いているけれど、もう残りの人生で明らかな暴力シーン、残酷シーンのあるような映画や小説は観たくないし読みたくないと思っている。実生活でそんなシーンに何も遭遇していないにかかわらず、もう充分疑似体験のストックがあって、「悪夢」の中で再生産されるからだ。

で、この映画も、ほとんどのシーンがひと昔前の「刑務所」の中で、暴力シーンがたくさんあると分かっていたから、本来なら見たくなかった。


でも、今の私は、昨今の事情、Covid19パンデミックによるフランスでの罰則付き外出制限8週間、という特異な体験をした後であり、アメリカ発の警察による黒人差別告発の抗議運動の広がりを毎日見せられるという二つの文脈を生きている最中だ。


自由が制限される刑務所での長期間の拘禁、黒人と白人の囚人の友情、白人刑務官や刑務所長の特権的暴力等のテーマをこの「名作」の声高い作品を通して考えてみたかった。


結果は…。


うーん、まず、この映画の中の刑務所内の小宇宙においては、肌の色による差別は感じられない。

武器を持つことができて暴力や時には殺害さえ思いのままである権力者側の暴力装置に属する者たち VS 人権や尊厳をすべて奪われた囚人、という構図で、黒人の囚人が特に虐げられるということはない。囚人たちの間でも、うまく立ち回れるタイプとか、示威的なタイプとかによって上下関係などが生まれるけれど、肌の色とか人種とかではないようだ。みなが「番号」の存在になり、ある種の平等な生存競争のスタートがある。


で、新しい囚人が刑務所に着いた時、強権的な所長が真っ先に言い渡すのは、この刑務所の規則の最も大切なものは「冒涜の言葉を吐かないこと」で、それにはいかなる容赦もないと言い渡される。要するに「神」とか「主」とか「キリスト」についての不敬な言葉を禁止する。

そして、シャワーとDDT散布の後に全員に渡されるのが囚人服と分厚い聖書だ。この聖書は絶対に敬われなければいけない。

最も大切なのは「規律と聖書」だ。


監督のフランク・ダラボンは、1956年のハンガリー動乱で亡命した両親のもとでフランスの難民キャンプで生まれ、それからアメリカに渡った。確認していないけれどその経歴から考えると、カトリックである可能性が高い。でもこの原作はスティーブン・キングで、このアメリカの刑務所の雰囲気はアングロ・サクソンのピューリタンっぽい。だから、聖書第一主義。

実際、この映画の主人公で元銀行家のアンディは白人エリートで冤罪による終身刑に服しているから他の囚人とは違う「エリート」、もっと言えば刑務官や所長たちよりもエリートであるインテリだ。

それを所長が確認し、後に財務や税金逃れを彼に任すための伏線になるのは、2人が聖書の聖句を暗唱していることを確認するシーンだ。好きな聖句は、と所長から聞かれて、すらすらと 「だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴く頃か、明け方か、あなたがたには分からないからである。」とアンディが答えると所長は間髪を入れずに「マルコ1335節」といい、自分の銘としている部分を暗唱する。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」というものだ。するとアンディもすぐに「ヨハネ8章12節」と答える。

もちろん所長や刑務官らの「キリスト教」は、彼らの行動の規範には全くなっていないただの「権威」のツールなのだけれど、それが互いの「教養」「階級」を測る道具になっているところがとてもアメリカ的だ。

カトリック世界では神学者、聖職者、修道者でもなければこういうやりとりはまずない。1947年からの20年ほどが舞台であるこの映画のアメリカと比べることはできないけれど、フランスの刑務所なら刑務所付き司祭がいて、ミサもできて、という感じだったろう。それが今のフランスは、イスラム原理主義のイマムが刑務所にいて「宣教」しているので、ただの「不良」が、服役するたびにジハード理論武装してテロリストになるというような悪循環もあることが知られているのだから時代は変わった。

所長のオフィスの壁には「神の裁きが間もなく来る」という聖句を妻が刺繍した額が架かっている。彼はそれを自慢しているが、その額の裏に秘密の金庫があって、そこに聖書と共に汚職の書類がしまい込まれている。


とにかく何をするにもどこへ行くのも、聖書は「良心の証明」になっているのだけれど、それが脱走の伏線になっている。所長は「救いは聖書の中にある」と言っていたけれど、最後にアンディは所長の聖書と自分の聖書をすり替えて、「救いは聖書にある」と所長に献辞を書き、所長が開くと、アンディが脱出のための壁を掘った小型ハンマー型に中がくりぬかれていた。どんな持ち物検査があっても、聖書を乱暴に扱うとか投げるとかはされないから一番安全な隠し場所だったわけだ。


アンディが黒人のレッドに、自分は無実だけれど妻の死の責任の一端があって罪悪感を感じる、でも、その分の贖罪は十分すぎるほど果たした、と言ったり、「希望」を語ったりするのも、聖書的な伏線になっている。

初期のキリスト者が「苦難をも誇りとし」、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」知っている(ローマの信徒への手紙5,3-4)といったように、無実の罪で死刑になったキリストを出発点にした宗教らしく、不当な苦難の中でも希望を持つ、というのはキリスト教のベースだからだ。


アンディがモーツァルトのオペラを流した時にすべての囚人が驚きと恍惚の表情を見せる演出では、音楽が、「自由」と「希望」のシンボルになっている。

フランスの今の刑務所ではスマートフォンの非合法差し入れがよく話題になるし、TVの視聴はどこでも普通だろう。それを思うと、「音楽」とまったく切り離されていた刑務所が過去にあったというのは想像できない「荒野」だっただろうと、このシーンで感慨を抱かされる。その後の独房禁固刑を覚悟しても、アンディはこのレコードをかけている間、希望の至福に浸っていた。


その後も、アンディは、所内の図書室を充実させたり、文字も読めない若者の更生が可能になるように「教育」を与えたりするなど刑務所の空気を一変させてしまう。「犯罪」への根本的な対策は、警官や刑務官などによる暴力支配ではなく「教育」がはぐくむ「希望」だというメッセージもあるわけだ。

思えば、この映画の5年後に同じ原作者、同じ監督でヒットした『グリーンマイル』も、さらにキリスト教的暗喩に満ちている。こちらは公開時に映画館で見たけれど、無実の罪で死刑に処されるのは黒人で、刑務官の病気を治すなど、いろいろな「奇跡」を起こす。無実の罪での苦難、死、償い、などへの問いがびっしり配されている。

『ショーシャンク・・』の所長は、聖書や聖句を振り回しているだけの偽善者であり極悪人だ、というわけでもない。彼の語彙には「主よ」とか「奇跡」とかが出てくる。多分、この時代のこの土地のこの階層の平均的な宗教観と行動習慣を持っているだけだ。

自分の言行が一致しないことに罪悪感を持つとか、イエスの教えに反していることを恥じるとかいうことはおそらくまったくないのだろう。「悪の陳腐さ」と同じで、彼は自分のしていることが分かっていない。

それはイエスの頃の律法厳守主義の祭司たちや、イエスを裏切ったユダ、イエスが捕らえられた後で四散した弟子たち、十字架に打ち付けたローマ兵たちも同じだった。

復活したイエスが初めて弟子たちのいるところに現れた時、彼らは恐れおののいた。みんな罪悪感があり、亡霊に呪われるのだと思ったからだ。イエスは彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言わねばならなかった(ルカ24,36など)。

私たちはみな、囚人であろうが、刑務官であろうが、新型コロナウィルスに怯えて自宅隔離する人であろうが、本当の自由とか希望とか平安とは、かけ離れたところにいるのかもしれない。

二千年経っても、分厚い聖書を配られても、聖句を座右の銘にしても、1950年代のアメリカでも、21世紀のフランスでも、自由も希望も平安も、遠いところにある。

いや、「近くて遠いところ」なのかもしれない。

『ショーシャンクの空に』は一種の極限状況を舞台に、人間の苦難と希望の模索を見せてくれる。


刑務所映画、戦争映画、犯罪映画、ホラー映画、収容所映画、天変地異映画、世界の終わり映画、みんな嫌いだし見たくないけれど、そのような映画があり続け、人々を魅了し続けるのは、「平和があるように」へという終わることのない願いへの気づきなのかもしれない。


by mariastella | 2020-06-19 00:05 | 映画
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/

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