一週間ほど前に偶然この対談ビデオを視聴した。武田邦彦さんと宮沢孝幸さんの対談だ。
https://www.youtube.com/watch?v=8V6teai5xyg&feature=youtu.be
私が大学にいたころは、「産学共同」というワードが否定すべき諸悪の根源みたいな時期だった。
だからもともと理系が全共闘運動の出発点だったのだ。
それなのに、いつの間にか、今や、「産学共同」がスタンダードになっていることをこれまでも呆然として見ていた。
あれだけ、大学は「学問」の場であって、産業の論理とは独立して自由でなければならない、とみんなが思っていたはずなのに、結局、金になるかがどうかが基準になる例の「生産性」やコスパなどが最優先の社会になっていたわけだ。
それにしても、研究費の予算配分って、武田さんが言うように、一律同額にして成果を見るのっていい考えで、ベーシックインカム的な発想の転換だなあと思う。
宮沢さんの体験してきたことは、実感があって、おそろしい。
新型コロナ感染症対策への反応については、日本と、アメリカ型と、ラテン型とで違うけれど、アメリカ型のグローバリゼーションの暴走が共通の引き金になったのは確かだ。
宮沢さんが、どうしてヨーロッパの国が過剰反応したのかが不思議だとコメントしていたけれど、それは、前にも書いたけれど、やはり、1月下旬からの武漢のロックダウンや病院建設のパフォーマンスなど、「中国」で起こっていることをリアルタイムで見て、洗脳状態になってしまったからだろう。ヨーロッパ発のウィルスだったら、ロックダウンにならなかったのはほぼ確かだと思う。
それにしても、大学の研究費のこと、研究者の「哲学」のこと、いろいろ考えさせられる。私がここ数年身近で見てきたのはフランスとアメリカの大学医学部の予算の付き方やメンタリティの差なのだけれど、驚くような内情と共に、やはり、純粋に研究や教育に使命感を持つ人もいるし、治らなかった病気を治したいという「結果を出したい」タイプの人もいる。「結果を出したい」人も、別に承認欲求や金儲けが視野にあるのではなく、ただただ「結果を出したい」情熱がある人の方が多い気がする。
「ユマニスム」の伝統が、建前だけでなくどこかに残っている。いや、建前が残っている、ということ自体が大切だ。
何にしても、どのような研究でも仕事でも営みでも、人間の存在の根にあるものとつながり、「尊厳」への感受性を持ち続けなければ、人は自分も他人も損なってしまう。あらゆる「人文科学」や「芸術」によって担保されなければ、最終的にはそれこそ壮大な無駄や深刻な逸脱に陥ってしまうのだろう。
この「産学共同」への批判意識が私の学生時代とあまりにもかけ離れてしまったことは、オリンピックへの視線の変化にも通じる。
大学が「純粋な学問の砦」であるべきだという人がいた頃は、オリンピックはプロスポーツではなくてアマチュアのスポーツ、つまり、スポーツを職業にしている人のものではない、という認識があった。「勝つことではなく参加することに意義がある」
という言葉も浸透していた。
それが今や、「プロ=それで食べていける=アマチュアよりレベルが高い」という雰囲気になり、オリンピックで勝てばなおさら賞金も出るし、プロ選手の「商品価値」がアップするというのが当然のようになった。広告会社がバックにある商業五輪が違和感を抱かせないなど、隔世の感がある。
開催時期もアメリカのTVの都合で猛暑。しかもここのところ梅雨の終わりの豪雨の大被害が続く。もし今回の五輪が今年開催だったら、「復興五輪」の言葉は空しすぎた。で、前回の東京五輪の時のように10月にすべきという意見もあったけれど、これも、昔と違って、台風の時期が長くなり、豪雨被害も少なくなく、「異常気象」の実態を真剣に考えるべき時期に来ている。それなのに、相変わらず目先の経済効果や利権が第一というのが現実だ。
「コロナ禍」が気づかせてくれるものが、次から次へと出てくる。