7/16のカルメル山のノートルダムの祝日で、1858年の聖母最後の御出現を記念した「Lourdes united」の企画で、ルルドからテレビやネットで一日中各国語のミサが配信された。
みんな生き生きしている。
次々に送られてくる各国語のコメントも喜びと切実さにあふれている。
「聖なる乙女Sainte Vierge」という形容より「ママン・マリーMaman Marie」という呼びかけが目立つ。
外出規制の間は聖域が封鎖されるという前代未聞の事態のルルドだったけれど、毎日のロザリオは配信され、だれでも洞窟をリアルタイムで見ることができた。様々な祈願の手紙は続々届いていた。
例年は夏のこの季節、世界各国からのルルド巡礼団が大挙してやってくる、が今年はなし。周りの宿泊施設や土産物店や飲食店は深刻な経済損失だろうし、ルルド聖域自体も寄付によって運営されているのでいろいろと深刻だろう。
でも、この「ルルド・ユーナイテッド」を、世界中の人がそれぞれの言葉で聖母に祈ることができる新しい聖霊降臨の場をにしたいという気持ちは伝わる。
ルルドは特別な場所だ。
ルルドを特別な場所にしたのは、たぶん「場」の持つエネルギーというのもあるのだろうけれど、こういう形の「特別な場所」を絶対に必要とする人たちの存在なのだろうとあらためて思う。
「無償」の絶対性がその「秘密」を根底から支えている。
プロテスタント以前のキリスト教が「十字架のイエスと無原罪のマリア」をセットにしたことの必然性は、あらゆる意味での生き難さを生まれながらかかえているすべての思いに由来するのだろう。
信じて仰ぐ「信仰」や、信じて受け入れる「信受」とちがって、ただひたすら、信じたい、頼りたい、という「信頼」をそのまま許諾してほしいという心がルルドという聖地を生み、育てた。
この異様なコロナ禍が収束したら、またルルドに行ってみたい。