校閲の力ってすごいなあと思う。
最近、ネットの記事(経済雑誌のオンライン記事)で、「・・せざる負えない」というのがあって驚いた。
もう何十年も前だけれど、パリのアソシエーションのアパルトマンを短期で提供していた時に、ちょっとしたトラブルがあって、その相手と手書きのファックスでやりとりしたことがある。
その人がメディア関係の人であったのにも関わらず「・・せざる終えない」と書いてきた。
意味はもちろん分かったけれど、「せざるを得ない」をそういう風に分節する人もいるのかと信じられなかった。その字面を見ていると、なんとなくそれで通してきたというのが分からないでもないとも思ったので、印象に残っている。
で、今度は、ネット記事だけれど、プロの書いた記事のはずだ。
そこに「・・・せざる負えない」という表記を見て、突然、自分の確信が揺さぶられた気がした。
で、検索してみたら、この誤記は今よくあるらしい。「せざるをえない」と入力せずに「せざるおえない」と入力するとこの変換になるのでわりあい流通しているのだそうだ。なるほどね。
私も読み方がよくわからなくなることがある。
外務大臣のことを「がいそう」と入力しても「がいしょう」と入力しても「外相」となるし、日本に来ることを「らいにち」か「らいじつ」かよく分からなくなって、迷っても、どちらでも変換できる。
国に入ることは「にゅうこく」でしか変換できないのに、なぜか時々「にゅうごく」と打ってしまって、「入獄」しか出てこないのであわてることもある。
週刊誌で校閲者(毎日新聞校閲センター記者)の連載の中で、コロナ禍の報道について、間違った印象を与えないように訂正を相談するというのを読んだ。(*)
病院などがウィルスの「汚染」場所という言葉を使うのはよくない、自分が患者だったら、自分がいた場所、使ったものが「汚染された」と考えると嫌だし、差別意識を助長するかもしれない。で、「リスクが高い」などに変えてもらったそうだ。
「感染が発覚した」も、「発覚」では悪事や陰謀が明るみにでたような印象を与えるから「判明した」に変えてもらうとか。
差別を食い止める一つの武器、それが「言葉」だ、と。筆者は言う。
こんな意識の高い校閲者がいるのだ。
ニュースのタイトルには、センセーショナルなものが多い。
明らかなミスリードもある。
特にコロナ禍について、夜の街とか、遊興する若者とか、不安を煽ったり、スケープゴートを仕立てたりするような明らかな印象操作があって、それに慣れ、デフォルトになっていく。
私も「差別」をくいとめるためにあれこれ書いている。
でも、「校閲」さんがこんなにがんばってくれるなんて。
私の原稿も、言い間違いや勘違い、誤変換や単純ミスは校閲さんがチェックしてくれるだろうと安心して任せる部分がある。でも、ここまで、一人の人間として「書き方」を提案してくれることもあるわけだ。
頼もしい。
*『コロナ「差別」に言葉であらがう』(サンデー毎日7/26号『校閲至極No.106』)