これは先日のこのブログの続きです。
火災から一週間経って、容疑者のルワンダ人が、大オルガン、小オルガン、電気配線版の三ヶ所に放火したことを自白したというニュースがあった。
一度は容疑を否認したまま事情聴取から解放されたという話もあったのだけれど。
で、教区のボランティアの弁護士が、早速、容疑者の心がこれで平安を取り戻せただろう、罪を認めることは贖罪の第一歩だから彼の勇気を喜びたい、これから長い裁判の道のりが始まるけれど、彼は信仰者であるからしっかりと自分のしたことも見つめてほしい、のような趣旨のことをコメントしていた。
上のブログでも、弁護士の言葉に感心したけれど、容疑者も、教区の敬虔な信徒で顔見知りでもあるのだろうこの弁護士の応対を前にして心をほだされたのかもしれない。
難民のビザを獲得できなかったことについて、教区の支援、後押しが少なかったことも不満で、この放火に至ったという報道もあった。けれども、こんな「取り返しのつかない」損害を与えても「信仰者だから」と言ってもらえたのだから、きっと本気で後悔していることだろう。
大聖堂も大オルガンもカトリック教会でなく「国の財産」だし、文化遺産であり、この容疑者もミサでこのオルガンの演奏を聴きながら、フランスに残れますようにと神に祈ったのだろう。だから失望したのかもしれない。
でも、神は、個人の願いをかなえるために人間社会のいろいろな仕組みをどうこうするような力を持っているわけではない。神にできることは無条件に愛することだけで、「神の家」である教会を燃やされても、神を讃える聖歌を奏でる大オルガンを燃やされても、この容疑者を愛している。だからこそ弁護士のこういう言葉が発せられた。
この放火の罪は普通なら10年以上の刑と150万ユーロ(1800万円くらい)の罰金だそうだ。彼にはもちろん支払い能力はないだろうし、不法滞在として今にも強制送還されるはずだったのが、これから長い裁判と実刑をフランスで送る可能性があるのだから皮肉だ。それともそれこそ、想像もつかない「神の計らい」が働いて、別の展開をするのだろうか。
ちょうど、日本では、東京の大司教が、7/25のブログでCovid19対策に触れて、こう書いていた。
「これまでのところ、小教区において感染の報告はありませんが、それが現在の各小教区の感染対策の結果なのか、それとも今般の感染症がそういった程度のことなのかは、残念ながら確証を持ってどちらかだと断定することは出来ません。ですから現時点では、教区としてはより慎重な判断を優先させる必要があると考えています。」
これって、「小教区」の中から「感染者」が出たら、それが実はいつどこから感染したのか経路がまったくわからなくても、いったんそれが「発覚」したら、教区も教会も後ろ指をさされて大変なことになる、という感覚が伝わってくる。その教会はすぐに閉鎖となり、感染者と一緒にミサに出ていた人は全員自主隔離とか検査ということになるに違いない。教会名が公表されたら周りに住んでいる人は恐れるかもしれない。
ウィルスの感染者という運の悪かった気の毒な人すら「犯罪者」であるかのように連帯責任をとらせられかねない日本の教会。日本の雰囲気を反映せざるを得ないのだろう。
鍵を預けていた難民の信徒に聖堂を放火されても、贖罪の意思を喜び、寄り添っていくと公言し得るナントの教会。
いろいろ考えさせられる。