(前の続きで最後の回です)
Q : どうして教会はそんなに慎重なのですか?
A : 第一に、御出現は「特定地域の現象」だからです。私たちの信仰の根底に位置するものではありません。
次に、これらの現象は、異端的な動きや、反動的な動き、カルト的逸脱、さらに教会分裂的逸脱の動きなどを起源としている可能性もあります。
その上、現代はまさに「感染拡大」ともいうべき「御出現」ラッシュが続いているのです。驚くばかりです。新しい「御出現」が私のところに報告されてこない週はありません。
そのほとんどは、「人」に依拠しているもので「場」に依拠しているものではありません。メジュゴリエもそうです。「巡礼者」たちは聖母に祈りに行くのか「お告げ」を伝える人に会いに行くのか分かりません。人々が、神や聖母を見たり聞いたりしたと称する人間にじかに触れることで神のミステールへの特権的アクセスを得られると考えるとしたら、その「見神者」を聖母やイエスよりも上位に置いてしまうリスクがあります。
聖母のほんとうの言葉はカナで語られたこの言葉につきます。
「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」(ヨハネ2,5)
Sekko : これを書いている8/15、聖母被昇天祭のミサで、司祭が何度も何度も「主よ、聖母が私たちの祈りを取り次いでくれることに合意してください」という祈りをしていた。つまり聖母が勝手に人々の願いを聞き入れるわけではなく、主イエス・キリストに取り次ぎ、とりなしてくれるという構図になっている。それは他のすべての天使を含む聖人崇敬の祈りについても同じだ。
いわば、聖人が「ひとつよろしく」と口をきいてくれたら、主は「聖人」に免じてことがうまくいくように便宜をはかってくれる ?
こういうとどこかの選挙運動みたいだけれど、もちろんその反対で、祈願とその成就には、トレードオフの関係はまったくない。
「愛」=「無償」=「恵み」が相互に動き働くところでだけ希望が生まれる。
それを押さえておかないと、神だの聖母だのイエスだのが「言いつけた」内容に対する識別ができなくなる。「広告」の言葉、「誘惑」の言葉、「脅し」の言葉の中で生きている私たちには、そう簡単なことではない。