講談社の『本』7月号に、ブルーバックス『量子とは何だろう』の著者松浦壮氏が「見えている世界・見ていない世界・本当の世界」という分を寄せられていた。
「見えているもの」とか感知しているものが、五感という観測装置が捉えた情報を統合させるために脳が作り上げた「世界の想像図」だというのは今やよく分かる。
要約すると、
自然科学は、「存在とは、それを仮定することで現象を説明できる仮説である」という発想で、現象の合理的説明が科学の目的。
現象という「想像図」と矛盾しない仮説が科学における「存在」。(例えば「力」は目に見えないけれど「加速」という現象を説明するために必要な存在)
また、いつでも存在が確認できるなら、見ても見なくても存在している、という立場も常識を根底から支えている。(誰も見ていない月も存在している)
量子力学はこの世界観をひっくり返した。「見る前は確定していなかった電子の居場所が、見ることで確定する」と仮定しないと自然現象が説明できない。
「直観」をはねつける量子力学を常識や直感に組み入れるのは「天動説」が「地動説」に変わったくらいに難しい。
となる。
確かに、今でさえ、「地動説」はみな頭で理解しているけれど、毎朝日が昇り毎夕日が沈み、月が満ち欠けして、という「目に見える」「現象」はあいかわらず日常レベルで機能しているし、生活レベルでは星座占いや干支占いですら、需要と供給がある。
でも、見ることによって居場所が確定する、存在するという発想って、宗教神秘現象や見神体験、御出現、回心などの言説においては、実はすでに「根底にある」ような気がする。宗教の典礼の中だけでなく、芸術の中に、また自分の心の奥においても、神と「出会う」人がいる。
有神論とか無神論で、神は「存在」するかどうかの「議論」は、超越神が「見えない」か「見えているか」か、あるいは神を「見ない」のか、などが、近代科学合理主義の「存在」定義によって否定されたり、あるいは、存在してもしなくてもどちらでもいいとスルーされてきた。
私たちが、「世界の根本である量子の理」(松浦さんの言葉)を直観に焼きつけられる時代が遠からず来る時には、神や各種の「霊的」存在は、どのように語られ、どのように生きられるのだろうか。