最後は教会。これは、もうテンプル騎士団の面影というより、マルタ騎士団の色濃いものだ。
壁にマルタ十字架が描かれている。マルタ騎士団の前身である聖ヨハネ騎士団にちなんで聖ヨハネ十字架ともよばれるもので、十字架の先がふたつに分かれていて「星」をイメージしたもの。騎士たちの八つの心得の他に、十字軍を組織したヨーロッパの八つの国(オーヴェルニュ、イングランド、アラゴン、カスティーリャ、プロヴァンス、イタリア、ドイツ、フランス)を表す。
この教会は、騎士団の敷地の外側の扉からも入れるので、日曜のミサには地域の信徒もあずかることができた。で、名士のためには桟敷席、ではなかった、ブロック席のソーシャル・ディスタンスが設けられている。壁際は一般席。
前にも書いたが、テンプル騎士団についてはいつかまとまったものを書こうと思っているのだけれど、こうして彼らの「生活」基地の空気を吸って、その後のマルタ騎士団の展開も考えると、本当に、テンプル騎士団異端裁判というのは悪質で非道なでっち上げ裁判だったとあらためて思う。
ジャンヌ・ダルクは政治的に「復権」できた。
テンプル騎士団はフランス王とフランスに牛耳られた教皇を敵に回して、しかも、「十字軍」の意味そのものがその後の歴史によって「野蛮なローマ・カトリックの狂信者による一方的な略奪」のようなポリコレ・レッテルを貼られたので、「復権」できない。膨大な裁判記録によって作られた悪魔的イメージもサブカル的定着をしている。それらについてまったく別の角度から切り込んでいきたいものだ。
駐車場に戻ると印象的な樹が。
この樹は騎士団の生活を見ていたのだろうか。