最近読んだAntoine Compagnon のパスカルについての随想で、パスカルがジャンセニスムを擁護した『プロヴァンシアル』が、共産主義者の活動を鼓舞するために読まれていたということを知って意外だった。
マルクス主義者は伝統的にパスカルをリスペクトしてきたのだそうだ。
エリック・ロメールの映画『モード家の一夜』にも、カトリックの男とマルクス主義哲学の教授の対話が出てくる。
「パスカルの賭け」という有名な話がある。
神が存在するかしないか、どちらかに賭けるとしたら、パスカルは神の存在の方に賭けた。
神が存在するなら永遠の命が約束される。存在しなくても失うものはない。
存在しない方に賭ければ、その賭けに勝っても死後は虚無だけで得るものはなく、賭けに負けたら失うものはあまりにも大きいからだ。
神なき人間は悲惨で、でも、神は隠れている。
マルクス主義者は、それを「歴史には意味があるかどうか」という賭けに置き換える。
歴史には意味がないという確率が90%で、歴史に意味があるという確率が10% しかなくても、マルクス主義者は「よりよい世界がある」という方に賭けるのだ、という。
より良い状態があるはずで、まだ見えないそれを信じてそれに向かって歩く、ということ、「参画」するということだ。
フランシスコ教皇の最新の回勅のことを考える。
全ての人が神の前の同胞として助け合い、支え合うことを呼びかけている。
「イスラム過激派」でなく「個人主義過激派」に警鐘を鳴らしている。
自由、平等、同胞愛(きょうだい愛)というけれど、同胞愛なしに自由も平等もない。
今の世界は格差が激しすぎる。貧困や生き難さから逃れようとする人々をみなが受け入れなければならない。
このフランシスコ教皇を、フランスで差別主義者だとされている極右ジャーナリストのエリック・ゼムールが「南米から来たヨーロッパの敵、ヨーロッパを嫌っている」と形容したのが話題になった。回勅が、ヨーロッパの「難民対策」に関わる政治的なテキストだからだ。
フランシスコ教皇は、エコロジーに関する回勅で地球を人類全部の「共通の家」と形容したけれど、ヨハネ23世も国連で同じことを言っている。でも、同じ家に住む同胞であるはずの全人類が共に家を救うと決意しないかぎり、何も変わらないし、変わっていない。
最近はヴァティカンの高官の汚職がまた明るみに出た。
フランシスコ教皇はヴァティカンを改革すると宣言したけれど、「世界の同胞」どころか、「ヴァティカンの同胞」ですら、心をひとつになどしない。
フランシスコ教皇は保守派に嫌われ、革新派に好かれている。
「今より良い世界」には、より弱い同胞に手をさしのべることで近づくことができる。
歴史には意味があって、より良い方向に向かうことに自分も参画しているという実感があれば、人生の意味も肯定できる気がする。
「暴力の衝動から解放された世界がいつか実現する」方に賭けてみたい。