先日の『大脱走』に続き、同じジョン・スタージェスの少し前の映画『荒野の七人』をarteで視聴。ユル・ ブリンナーとスティーブ・マックイーンが並んでいるポスターはいつも記憶にあるけれど、私はこの映画を観たことがなかった。
イメージ的にまず『七人の侍』のリメイクという意識があったからで、『七人の侍』の方は、何度も見て、フランス人にも解説して、宮口精二の久蔵が絶対のヒーローだったのでそのリメイクなんてパロディでしかない、と軽んじていたからだと思う。
今回、コロナ禍の映画館閉鎖が続いていることもあって、なんとなく視聴する気になった。『大脱走』がおもしろかったからでもある。
で、最初から驚いた。北メキシコのインディオの村、古い教会、抜けるような青空、それが『七人の侍』のモノクロでコンパクトなイメージと対照的だった。それにいわゆる「西部劇」という先入観があったけれど、舞台がメキシコで、フォークロリックな祭りの様子も色鮮やかに出てくる。アメリカの国境地帯で雇われたガンマンたちが、「アメリカ人」で、メキシコ側の野盗集団は「メキシコ人」で、帽子の形でそれが分かる。
風景の美しさや砂ぼこりの環境描写、「民族」差別も含めて、興味あるディティールがいくつもあった。
『七人の侍』の方が分かりやすい勧善懲悪だったけれど、こちらは、野盗の側も飢えていて、野盗と農民たちもそれなりの「取引」をしていて、野盗のボスがガンマンたちを撃たずに去らせてやって、その後で彼らの銃を弾も抜かずに返してやる、というミスを犯すくらいで、「殺戮集団」というのとは違う。ガンマンたちと農民たちが彼らを一人残らず殺すのだ。
その戦いも真っ青な空のもと、ガンマンたちはいつも汗ばんでいる。七人の侍の豪雨とは対照的だ。
人物の造形は、それなりによくできていると思った。七人の侍の一人一人を想起する必要はない。坊主頭の志村喬とユル・ブリンナーのリーダーぶりは共通していている。ユル・ブリンナーは他の映画でももちろん見ているけれど、こんなに魅力的だったとは再発見だ。思えばこの人は、スイス人の母とモンゴル人の父を持つ父親と、ロシア人の母との間に生まれたアジアのクォーターで、ロシア革命で中国を経てフランスに亡命するなど、複雑な経歴の人のようで、そのことで、誰の目にもエキゾティックな魅力を発しているのだろう。
マックィーンはこの映画で人気が出て、『大脱走』の主役を獲得したわけだが、こんなに独特の陰のある人だったのだなあと今にして思う。少女の頃の記憶では特にハンサムでもないアクションスターでしかなかったのだけれど。
この映画でアル中のガンマンを演じるロバート・ヴォーンが「ナポレオン・ソロ」となってからは、テレビでいつも観ていたのも懐かしい。中学生の私の部屋には自分用の小型テレビがあった。『大脱走』にはデビット・マッカラムが出ていた。ナポレオン・ソロやイリア・クリヤキンは私のルームメイトみたいなものだった。
(そういえば、農民を守る仲間を募るのに、今自分が「ひとり」だけだ、という意味でユル・ブリンナーが人差し指を立てた後、マックイーンが自分も加わるという徴しに人差し指と中指を立てて「ふたり」と示すのが不思議だった。
「七人の侍」にこういうシーンがあったのだろうか。
一人、二人、とか ひとつふたつとか人を示すときに、日本ではそうするけれど、「外国ではまず親指、それから人差し指という順番です」と昔から言われていた気がするのだけれど・・・。)