(この記事は三日前の記事の続きです)
新しい世界秩序という陰謀論を前にして、宗教や信仰はその入り口となることもあるけれど、要塞ともなり得る、ということをヘルシンキのドミニコ会士マリー=オーギュスタン・ローラン=ユイグ=フォンが語る。
Q : キリスト教の中に陰謀論の種は存在しているのでしょうか?
A : 黙示録的な戦いは、アンチクリストに対する戦いとして始まることになっています。今言われているのは、人々の意識と体と心を操作しようとする世界政府の形をとったアンチクリストです。キリスト教の信仰はこの世の終わりを経て神の国に参入するという終末論を提供しているのでこのような考えの入り口になります。時間や世界には終わりがあって、キリストが戻ってきて審判をし、神がすべての栄光のもとに顕われるだろうというものです。けれども、それ以外については、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。(マタイ24,36)というイエスの言葉に尽きます。
それなのにカトリックの一部は、ヨハネの黙示録に魅せられて、自分たちの生きている現状をそれに結びつけてきました。しかしそれは非常に危険なことです。なぜなら、この世でのイエスの代理である教会による仲介を拒絶することにつながるからです。教条主義者の中にはこうして公式の教会と断絶する一派がいて、キリスト教の信仰と関係のない現象に夢中になることがあります。それらが「現実の陰謀論的解読」を育てています。それは、顕示された教え以外に、選ばれたものにだけ伝えられた秘密の教えがあるというグノーシスの異端の流れを汲んでいます。その考えほどに反キリスト教的なものはありません。私たちの信仰は「隠されたものから構成されたものではありません。キリスト教のミステールは、顕現されたミステールだからです。
Sekko : イエスの教えに、「一般向きのもの」と、「弟子に向けたもの」があるのは事実だけれど、福音書にはそのことも含めて書かれている。たとえばマタイの15章には、まず群衆を呼び寄せて「聞いて悟りなさい」と言ったけれど、その後で近寄ってきた弟子に、「あなたがたも、まだ悟らないのか。」とがっかりして(?)、さらに解説するというシーンがある。全体として弟子たちは、イエスの昇天後に「聖霊」が降りてくるまではイエスの言葉をあまり理解していない。だから「秘密の教え」が口伝として残るというのは明らかに異端だ。だいいちイエス自身、ユダヤ教の神の言葉は大切にしたけれど、それを解釈してきた口伝律法を教条的に押しつけるファリサイ派の人々や律法学者たちを批判している。また、イエスは多くの教えを「たとえ話」の形で残していて、「教えを一字一句絶対に厳守する」というタイプの信仰を期待していない。
なんだか、こう書くと、とっても健全。それなのに「アポカリプス」陰謀論に魅せられる人が少なくないのはいったいどのような心理状態を反映しているのだろう。
なお、付け加えておくと、顕教、密教的な2つの流れがはっきりしているのは、プラトン哲学の方で、プラトンの著書と違って、プラトン・アカデミーでの口伝内容は公開できない仕組みになっていた。初期のキリスト教神学はネオ・プラトニズムの世界で発展したし、それはずっと残っているから、その意味では「陰謀論」に結びつきやすいのかもしれない。
(続く)