(前回の続きです)
Q : 今回の著書の『認知のアポカリス』というタイトルはそこから来ているわけですね。
A : 私は世界の終わりを予言しているわけではありません。ここでアポカリプスというのは「apocalypsis」というラテン語から来ていて「啓示」「顕示」という意味です。我々の時代は我々を映す鏡です。残念ですがそこに映っているのは我々が習合的に形作ってきたデジタルの跡で、リアルなものです。我々の姿が暴かれています。これは心配なことではありますが、同時に政治的にしかるべき対応するチャンスかもしれません。残念なことに大きなイデオロギーを形成するストーリーというのは、いつの時代も、その時代を映す鏡の顕示するものを意図的にゆがめたものになるのです。
Q : 例えば?
A : 今の時代に支配的な言説の母胎となっていい、全てのイデオロギーをインスパイアしているものがふたつあって我々を袋小路に追い込んでいます。
そのひとつは「自然から遠ざけられた人間」というルソー以来のものです。つまり人間の自然な本性は環境によって倒錯しているというものです。昔は、悪魔、悪の力が人間を罪へと追いやっていると宗教が考えてきました。今は、その悪魔にたとえば「資本主義」などの名前が付けられています。フランクフルト学派にインスパイアされたブルデューやチョムスキーなどは、供給さえあれば需要は人工的に作り出されると言います。こう言うことで、我々自身の持つもっとも暗く愚かな傾向を免罪してしまいます。すべてのデータが示しているのに、それを隠そうとするのです。
けれども、美術館を無料で解放することにした時、人々は美術館に押し寄せませんでした。
そのこと自体が絶対に重大というわけではありませんが、このような現実を見るのを拒絶することが、我々を単純な人類学に矮小化して、現実の前には太刀打ちできないイデオロギーを作り出すのです。例えば、どんなに良心的に作られた平等主義でも、我々の幸福感の一部はいつも、他者の不幸を見つめることによって得られるという現実は変わりません。
sekko : これにはなかなか複雑な気がする。続きを読もう。
(続く)