トランプの政権交代劇を見ていて、アメリカの保守・革新とフランスのそれは本質的に違うなあと思った。
それについて書く余裕はないけれど、それを考えるのに一番参考になったのが「保守主義の辞典」だ。
この辞典の編纂者の一人であるフレデリック・ルヴィロワが昨秋出したのがマクロンとサン=シモンを比較したのがこの本。
マクロン大統領は社会党出身だけれど、国王然とした振舞いや黄色いヴェスト運動もあったし、保守政党系の首相らを起用してきたこともあって、金持ち優遇の「右派」ではないかと見られることもあるけれど、実はがちがちのサン=シモン主義者なのだという分析だ。
実際、マクロンは内閣を完全に男女同数にし、防衛大臣に女性ばかり指名するなど、ある意味でサン=シモン的ユートピアを可視化した。
マルクスがサン=シモンのことをユートピア的社会主義と呼んだように、その意味ではマクロンは「左派」であり続けている。
ただ、サン=シモン主義の「進歩」主義が変異した。
サン=シモンはフランスではじめて「産業革命」という言葉を使った。科学技術の発展による人々の生活の向上、テクノクラシーの登場は、武力革命でない「革命」であり、民衆目線にあるべきものだった。
それが顕著に変異したのはやはり20世紀後半以降で、「進歩」とか「革新」の言葉が「成長」という言葉にとってかわった。経済の指標としての「成長率」など、数値目標として追及されるものになったのだ。そして「成長」はエリート主導によってなされる。
そこにはかっての「進歩」概念の中に含まれていた人道的概念や霊的ディメンションはない。数値化できないからだ。人々はその「生産性」によって評価されたり、分断された「自由な」消費者だとされたりして存在するものになった。
人道的概念は「個人の自由と生存権」だけではなく、隣人との調和や連帯や共感の全体を含むし、霊的ディメンションというのは、人道、人類を超えた他の生物や環境全体との調和、連帯、共感を含む。
「人間」という時も、歴史の中の人間、もうこの世に存在しない人や世代の記憶、つながり、まだ生まれていない人や世代への思いなども含む。それらを包含した「進歩」が目指されなくてはいけないというわけだ。
一方で、正しい保守主義というのは、「不動」とか「不変」というものではないし、「反動」や「懐古」でもない。エリート主導の「成長」に懐疑的であり、非エリートと共に霊的、人間的クオリティを伴う「進歩」を目指すものだ、とルヴィロワは言う。
昨今の「コロナ禍」でも、日々の感染者数とか死者数とか、成長率のマイナス化とか、借金の増大とか、罰金とか補償金とか、「数値」が人々を常に脅かし続けている。
このような状況にあっても一人一人が自分や自分の近くにいる人々の生活のクオリティや霊的なクオリティをどうやって「高めて」いけるのかが問われているのを意識しなくては、と心する。