キリスト教神学の歴史を見ていると、ルネサンスの自然哲学やネオプラトニズムの影響を通して、実は、プラトンからずっと変わっていないのではないかという部分がある。
ヌメニウスがプラトンのことを「ギリシャ語を話すモーセ」と言ったように、アレキサンドリアの神学校はいつもシンボリックでアレゴリックだった。(アンチオキアの神学校は歴史的、文学的)
ヌメニウスはアモニウス・サカス(ローマのネオプラトニズムの創始者)の弟子で、プロティノスやオリゲネスも同窓だ。オリゲネスは後に異端として退けられたけれどれっきとした「教父」だ。
パウロの頃は、理性的なギリシャ哲学思想と死者の復活を唱えるキリスト教は相容れないと思われていた。2世紀に初めてひとりの哲学者がキリスト教に改宗した。「ギリシャ哲学」と「キリスト教」を統合した殉教者の聖ユスティノだ。
生涯について紹介するのは省略するが、日本のネットで拾ったものをリンク しておく。
少しコピペすると、
>>>ユスティノの両親はギリシャの異教徒でサマリアのフラビア・ネアポリスに住んでいた。ユスティノは長い間、哲学の勉強をしていたが、キリスト信者となりキリストの教えを最高の哲学、最高の道徳としてこれを実践して、信仰は知的の思想と両立できることを示そうと試みた。それでユスティノをキリスト教徒の最初の偉大な哲学者と言うことができるのである。世界にあるすべての真理は、ただひとつの源泉から出ている。これはすなわちキリストである。そしてキリストは三位一体中の第2のペルソナ、つまりロゴス(みことば)であり、また神の英知として永遠から永遠に至るまで万物を主宰したもうのである。そして人間は、その理性においてこの英知の要素、いわばひとつの真理の種子を持っているので、真理をわきまえることができる。このようなロゴスの種子を特に多く与えられた者が、ユダヤの預言者とか、ソクラテス、プラトンのような哲学者である。(…)
神のみことばを伝えるキリスト教は、永遠の真理そのものであり、すべての哲学や学問の完成である。素直な心で真理を探究する哲学者ならば、いつかキリストに到達するであろう。(…)神的なことを探求するのは哲学の務めではないか。<<<
別の言い方でこう表現する人もいる。
ユスティノはギリシャ哲学をキリスト教の光のもとに読み返した。ソクラテスもプラトンも、実はその光を受けていた。それがキリスト教によって光が「全開」したというわけだ。
逆に、今でもいわゆる「神学校」では、神学の前に、または並行して哲学を学ぶことがカリキュラムに組み込まれている。
プラトンアカデミーからアリストテレス神学が生まれているし、スコラ哲学、スコラ神学もその流れを受け継いだ。この質疑や討議による宗教者教育って、チベット仏教などでは非常に目立っているけれど、日本的な土壌では異質な気がする。その差が政策や外交関係にまで確かに影響を与えているのかもしれない。
近代以降のフランスでは「哲学」が啓蒙の世紀の知性、「神学」は蒙昧なカルト、のように二分する人が多く存在するせいで、非キリスト教文化圏の人はそういう表層に惑わされがちなのだけれど、哲学と神学の関係というテーマは、実はとても深く、錯綜していて刺激的だ。
そういえば前にこういう記事を書いていた。