世界の人口は今や80億人に近づいているそうだけれど、60億人とした時の統計では、その3分の1である20億人がなんらかのキリスト教の「洗礼」を受けていて、10億人がイスラム教徒、30億人がそれ以外(無宗教も含む)ということだったらしい。中国でも、6千万人が洗礼を受けている。でも中近東などアジアのキリスト教徒の実に4割がキリスト教徒であるという属性のもとに迫害を受けているという現実があるのは衝撃的だ。
インドやビルマの迫害もひどい。ビルマで軍隊に爆撃された村の生存者80人が新たな村を作ろうとしている映像を最近見た。
アブラハムの出身地イラク、パウロの回心の地シリア、これらの地域には20世紀には400万人のキリスト教徒がいたのに、今は90万人を切る。裕福な人はみな逃げたから、残っているのは最も貧しいキリスト教徒たち。本当に悲惨だ。これらの地域では、キリスト教以前のアッシリア、カルディアの文化遺産も破壊され続けている。
今のイランには100-500万人の隠れキリシタン?がいるとも言われ、大学から追放されるなどの例がある。エジプトのコプト・キリスト教徒は生まれると手に十字架のタトゥを入れられるそうだが、それがあると小学校でもクラスの片隅に追いやられ、ラマダンも強制されるし、耐えかねてタトゥを消すために自傷する子供もいるという。
唯一のポジティヴなニュースは、スーダンで、憲法から、イスラム棄教者の死刑条項が廃止されたことだそうだ。(イスラムのシャリア法では棄教は死罪に当たる。)
オリエントのキリスト教徒を救えというヨーロッパの活動は、コロナ禍で下火になってしまったけれど、いわゆる先進国から見ると時代錯誤でくらくらするような蛮行が今も繰り広げられているわけだ。
グローバルな時代、思想信条によって人権を奪われたり殺されたりする人々がすぐそばにいるのに何もしないでいれば、自国でテロに怯えなければいけないことにもなる。思想信条の多様性と共生の重要性を認識することは、体内や環境の中でのウィルスやバクテリアまでも含めた他生物との共生についての考察にまでつながる。
先日、12月に亡くなった前東京大司教の追悼ミサをパリで挙げてもらった時、日本の教会のために祈るということになり、ミサが終わった後で、ある夫人が、「私は何世紀もの迫害に耐えて信仰を守ってきた日本のキリスト教徒を尊敬しています」とわざわざ声をかけにきてくれた。
そういえば、限定的な「開国」の後、「隠れキリシタン」を「発見」したプチジャン神父もフランス人だし、その後の江戸幕府や明治政府による「浦上崩れ」などキリスト教徒の迫害を非難する世論が最も高まったのもフランスだった。
極東とヨーロッパが果てしなく遠かった時代にあれほどフランス人の心を動かしたキリスト教迫害だったのに、世界の情報がリアルタイムで入ってくる今、遠くないキリスト教発祥の地で起こっている迫害が、難民受け入れなどの政治案件、経済案件にばかりなっている。
オリエントの教会に残る聖職者は、土地を捨てた彼らのことを「生きた殉教者」だと呼んでいる。
何ができるかもう一度考えてみたい。