サイトの新刊案内「Sekkoの本」「コーナーにコメントを載せました。
今、書下ろしの資料と共に、旧約聖書に関するテーマの記事を用意している。
テーマとは関係ないのだけれど、偶然、コヘレトの言葉(7,14)の中のこの部分に感じ入ってしまった。
幸せな日には幸せであれ。不幸な日にはこう考えよ。
人が後に起こることを見極められないように神は両者を造られたのだ、と。
昔の口語訳では
「順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ」
となっている。幸せな日には他の不幸な人に申し訳ないとか思う必要もないし、この幸せは続くまいと不安になる必要もない。
そして、不幸な日にはめいっぱい悲しんだり、幸せな人を羨んだりせずに、人生について考える時機だととらえよう。
そういう時、自分の過去の幸不幸や他人の幸不幸を思い浮かべて比較するのでなく、「神」のレベルにいったん「棚上げ」するのはいい考えかもしれない。
新約のヨハネの手紙一(3, 18-20)に、共同体の皆が誠実に愛し合い、たとえ心に責められることがあろうとも安心の中に生きよというのがある。罪悪感を持つ必要はない、なぜなら、「神は、私たちの心よりも大きく、すべてだからです」というのだ。
昔、日本の哲学者の不幸論を目にしたことがあるけれど、自分が幸せで満ち足りていても、不幸な人がいることを知っていることで本当に幸せにはなれない、と述べられていたのを思い出す。
コロナ禍の今、自粛ストレスや、感染者への気持ち、不安、自分がとりあえず無事でいること自体への不安、罪悪感、などでネガティヴになっている人は多いと思う。でも、どんなにささやかでも、幸せな日には幸せでいよう。