まとめて書いている暇がないのでメモ程度だけれど、先日ヤン・ボワシエールというラビの話を聞いて意外な思いがした。この人は1962年リール生まれで、ユダヤ人家庭出身ではない。地域的に見て冠婚葬祭カトリックという感じだろう。ところが、ユダヤ教と出会って、自分をまったく別の角度から発見したという。ユダヤ教徒としての自分を見つけたというのだ。ソルボンヌ、ベルリン、イスラエルと学び続け、2011年に正式にラビになった。でそれ以来、リベラル・ユダイズムの旗手として活躍している。
フランスは革命後の1791年に初めてユダヤ人を「共和国市民」として認めた。
で、彼は、100%ユダヤ人であることと、100%市民であることが両立することを証明しようとしている。
全ての人が市民としての権利、尊厳を持ちつつ平和に共生するのを目指しているので、ユダヤのトーラーの体系も、ジェンダー平等など変えていくのが当たり前だというスタンスだ。
なぜ私が意外に思ったのかというと、そんなにリベラルなスタンスなのだったら、どうしてわざわざユダヤ人アイデンティティを獲得するために努力する必要があったのだろうかということだ。普通に比較宗教や哲学や思想史の研究でもよかったのでは?
フランスにはカトリックの司祭にもとてもリベラルな人は少なくないし、自由に意見を発信している。「カトリック」であること自体には今や大した含意がなくて、日本の伝統仏教徒みたいなものだから、異宗教間対話も進んでいるし、わざわざ他の一神教に帰依する必要はどこにあるのだろう。
イスラムは父親によって、ユダヤは母親によってコミュニティに組み入れられる。生まれながらのユダヤ人でない人がユダヤ人として認められるには結構ややこしいステップが課せられる。
もっとも、ヨーロッパで生まれながらのユダヤ人なら、ホロコーストのスティグマを背負っていることもあって、そう簡単にリベラルの旗手にはなれないだろう。
ユダヤルーツの知識人、思想家らが、宗教と関係なくリベラルな言葉を発しても、いつかそのルーツのレンズを通して語られたり解釈されたりしてしまうことがある。
ヤン・ボワシエールのような「変わり者」が、リベラル活動家として、「フランスで幸せなユダヤ人」と自認することの意味はやはり看過できないのだろう。
Yann Boissière pour « Heureux comme un juif enFrance ? Réflexions d’un rabbin engagé » (Tallandier)