今年は、1821/4/9 に生まれたボードレールの生誕200年だ。
「悪の華」の詩が少しずつ発表された当時すでに、そのハーモニーの卓越には多くの読者が驚いたそうだ。彼の詩にはその後、実際少なからぬ曲がつけられている。
1857年に「悪の華」が非道徳ということで発禁になったのは、ハッシシ、酒、という当時のパリの罪悪感に触れたからだ。
1917年に著作権フリーになってから、初めて公教育の教科書に取り入れられた。
今で言うと「ミソジニー」認定の表現も多々あるので、下手するとキャンセル・カルチャーの対象にもなりそうだけれど、彼が反発したのは革命以来19世紀前半近くに確立した近代美学に対してだ。
翻訳も手掛けたポーやジョセフ・ドメストルとも近かった。ドメストルもそうだが、反革命の激しさと表裏をなすペシミズムがあってパラドクスをなしている。
ボードレールは、夜の街で退廃的な生活を送っていたのではなく、1848年の二月革命では通りに出て参画した。
キリスト教的感性はもちろん多くを占めていたけれど、「イエスによる贖罪と救済」のテーマよりも、「原罪」が払拭できなくて、「原罪」の不死、永遠性を感じていた。
私がボードレールに最も興味を持つのは、「人工楽園」の感性だ。
彼は一見、自然を憎悪し、反自然を称揚している。
これは今のエコロジズム(イデオロギーとしてのエコロジー)と真っ向から対立する。英語圏だったらそのうちやはりキャンセル・カルチャーの対象になるかもしれない。
でも、彼の「人工楽園」の思想は、反ルソー主義でもある。
で、反ルソーと言えばラモー。
ルソーのドイツ=イタリア風の予定調和な音楽と違って、ラモーのフランス・バロック音楽の人工性というのは、「反自然」という単純なものではない。
人間の都合のいいように編集された自然ではない、自然がクリエイトされる場面の秘密に迫ろうというものだ。
その意味で、ボードレールは、フランス・バロックの継承者なのだ。
身体性の獲得は知性と感性の統合にしかない。
(フランス・バロック論は、『バロック音楽はなぜ癒すのか(音楽之友社)』と、それ以後の論考はこのブログの「音楽」カテゴリーでいろいろ書いているので、興味のある方はどうぞ)