4月上旬、バルバラン枢機卿の無罪が最高裁で確定した。(上告棄却)
簡単に言えば、リヨン大司教区に属するプレナ神父による少年の性虐待の事実を知りながら警察に届けなかったという監督責任を問われていた。司祭の独身制を揶揄する反カトリックのロビーの影響も大きく、映画化されるほどの大騒ぎになったけれど、彼を罪に問わないとするのは妥当だと思う。
なぜなら、少年の性虐待を耳にした時点ですぐ司法当局に訴えなければ罪になる、という判例を作れば、これから、誰でもすぐにことを公にするのを事実上義務付けられる。
けれども、性虐待について絶対に知られたくないと考える被害者は存在する。
だからこそ、彼らが成人してから自分の意志で訴追することが優先されるべきで、それには「時効が存在しない」という法の枠が大切だ。
もちろん、被害を耳にした上層部が、司祭を別の所に転任させるのではなく、しっかり内部調査をして絶対に再犯させないように、隔離し治療させるなどの対応は絶対に必要だ。
映画にまでなったバルバラン枢機卿事件によっていろいろな問題点が議論されてきたことには効用もあった。
件数としては最も多い家庭内や教育施設での性虐待の実態がこれまでタブーの陰にあった状況から大きな一歩を踏みだすことになったのを助けたからだ。
バルバラン師の無罪確定はあまり大きく報道されなかった。この件が騒がれ始めてから、MeTooも含めて、パワハラ、セクハラ、家庭内、スポーツ界などでの弱者虐待がどんどん告発されてきたからだろう。
でもフランスのカトリック教会は、この事件を「なかったこと」にせずに、信頼回復、状況改善、予防策、救済策のために地道に努力しているようだ。すなおに、大したものだと思う。
フランス語にChose décantéeという表現がある。
デカンテというのは液体を放置して不純物が底に溜まるのを待つことで、古いワインなど、前日に栓を抜いてピッチャーに移しておかないととても飲めないことがある。澱がきれいにのぞかれると生まれ変わったように芳醇になる。
で、どんな「事件」でも、騒ぎの最中は、あれこれと情報が錯綜したり、感情的になったり、真偽の区別や全体の意味などが分からなかったり、日毎に見方が変わったりする。それを何年か「寝かしておいて」、距離をおけば、物事はデカンテされて、本質がよく見えるようになるということだ。
ちょうど2年前に起きたパリのノートルダムの火災の後、焼け落ちた塔の修復のデザインについていろいろなアイディアが出された。今やっと、補強の基礎工事が終わって、基本的には元あった彫像などの修復が主流になっている。このことも、やっとデカンテされてきた、と評した人がいた。
コロナ禍がデカンテされるのはいつのことだろう、とふと思う。