2020年10月に、アルメニアの飛び地ナゴルノカラバフでの戦闘に参加して銃撃されたのに奇跡的に助かった若者Sayat Terzyanが話している記事を先日目にした時、彼の顔から、トリノの聖骸布から再現されたイエスの顔をなぜか連想してしまった。
イエスより若いし、中東系だから似ていても別に不思議ではないのだけれど、印象的だったので彼の記事を読んでしまった。
写真はこれ。(La Vie 2021/4/21)
9月にアゼルバイジャン軍がカラバフを襲った時、ロシアで調理人として移民労働していたサヤトは、故郷に戻って、他の100人もの若者たちと同じく志願兵となった。4日間で武器の使い方を習い、前線に送られて、10/10、彼を含む12人のアルメニア兵士が200人のアゼルバイジャン軍と100mの距離で対峙した。サヤトは胸に銃弾を受けて倒れた。不思議なことに立ち上がることができてカラバフの病院に収容された。軍服の胸に大きな穴が開いていたのに、銃弾は肩に入っていた。胸のポケットに入れていた小型の祈禱書を貫通して、その後ろにあった十字架は割れていた。それが銃弾をそらせて肩に食い込ませたことで命が助かったのだ。その祈祷書は1988-1994年のカラバフの戦いに従軍していた彼の父親がやはり胸ポケットに入れていたものだそうで、サヤトの奇跡に生還に、他の家族と違って父親だけは驚かなかったという。
このことで、サヤトは、神の加護に感謝し、奇跡を証言することで信仰を持ち続けることの大切さを説いて回っている。1981年にテロリストに狙撃されたヨハネ・パウロ二世が、ファティマの聖母のおかげで銃弾が奇跡的に心臓をそれたと言ったエピソードを思い出す。
で、このサヤトの話に私が特に感じ入ったわけではない。彼自身も言っているけれど、この時の戦闘で、彼と同じ町の出身の青年が死んでいる。で、彼は自分が生き残ったことに意味がある、これ以降の人生には何か使命がある、と感じて、この奇跡の体験談をあちこちでして回っているわけだ。
おもしろいと思ったのは、「普通なら、前線では神は不在だ、神がいるならどうしてこんなことが、などという人もいるが、実は、前線では、無神論者も神にすがった」と証言していることだ。キリスト教はアルメニア人のアイデンティティだけれど26歳のサヤトのような若者には、愛国心や文化としてのキリスト教があっても、特に「信仰」や「神」を内面化していない人も少なくないということだろう。でも、生と死の実存的危機の前では、初めて圧倒的に「神」が意識されるのかもしれない。
もっとおもしろいのは、「汝の敵を愛せよ」というイエスの言葉が可能かどうかという話だ。サヤトは時々、彼を撃った兵士のことを考えるという。「敵」を赦すことができるのだろうか。で、アルメニアの諺に「イエスが『汝の敵を愛せよ』と言った時には、まだトルコ人がいなかった」というのがあるそうだ。
「銃を撃った人個人や、アゼルバイジャン人全体を赦すことはできるけれど、その後ろ盾であるエルドアンのトルコやトルコ帝国はいつもアルメニア人を殺戮し壊滅させる意図をはっきりと表明してきた。アルメニアでは司祭たちも武器をとって戦った。ぼくの願いは二度と戦争のない世界だ。でも、戦争があるなら、勝たなくてはならない。赦す? ぼくの信仰の道はまだ始まったばかりだ。」
なんだか、かわいい。
(アルメニアについての過去記事)