ヴァランシエンヌの「聖なる赤い紐」も、ポンマンと同じく「聖母御出現」と関係している。
とはいっても、19世紀のポンマンと違って、中世の話だ。
1008年の9月にそれは起こった。
「聖母出現」の話は中世には5000件くらい伝わっている。
だから「伝説」の類だと片づけられるかもしれないけれど、ここの御出現はそれを記念する行列の行事が毎年、なんともう1000年以上も続いているのがすごい。(ヨーロッパで一番古い)
フランス革命の間でさえ続いていた。政教分離法ができた後の2年間と、第一次世界大戦の間数年と、禁止令の出た1926年、爆撃された第二次世界大戦後に一度途絶えただけだ。
しかも行列の先頭に立って輿を担ぐのが今に至るまで市長であって、そのことで政教分離に反すると非難されたことがない。自治体と教会の共催で政教分離のないユニークな例だ。
(2020年の9月はコロナ禍のせいで、人々が輿を担いで練り歩くことができず、聖母像はトラックで運ばれて沿道から眺められた。)
もう一つのヴァランシエンヌの御出現の特徴は市民全員が聖母を見たことだ。
普通なら名もない羊飼いの少女とか司祭や修道者というのが定番なのに。
もっとも最初は、1008年9月に市の外れに住む隠遁者ベルトランに聖母のお告げがあったことから始まる。ペストが蔓延して人々が絶望していた時期だった。
お告げは、聖母誕生の9月8日の前夜に市を取り囲む要塞の上に全員が集まるようにというものだった。そこに聖母が現れた。
聖母は赤い糸玉を取り出し、それを天使がほどきながら市のぐるりを囲んでいった。
その後で、ペスト患者が治り、感染が鎮まった。
毎年感謝の行列をするようにと再びベルトランにお告げがあり、市と市役所が教会と共に主導して翌1009年から、残された赤い紐を聖遺物容器に入れて運ぶ行列が始まった。市の周り18 kmを行列する。
1392年には行列の規則が書かれている。裸足であること、柘植の枝をつけた杖を持つことなどだ。行列の詳細が文書で残っているのは1550年以降だ。
今もロワイエ信心会というのが中心になって行っている。会員は40人で入会にはメンバー2人の推薦が必要だ。
残念なことに、フランス革命で教会は荒らされて、「赤い紐」の聖遺物が失われた。
そのかわりに、1804年に今の聖母像が制作されて輿に載せられることになった。
今でも、1000人が広場に集まる。ムスリムも無宗教者もいる。
イスラム教でもコーランに聖母マリア(ミリアム)の名が何度も出てくるので聖母というキャラクターは違和感がない。
王や領主より上位の権威である聖母を掲げることで、市の独立とアイデンティティになってきた。
これは2019年の映像。
(続く)