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L'art de croire             竹下節子ブログ

ジョゼフ・カブリスとアイデンティティ

フランスのルイ王朝末期に生まれて、14歳でフランスを離れ、フランス革命やナポレオンの時代が終わって、王政復古になってからフランスに戻ったジョセフ・カブリスという人がいる。
もとはボルドーの船乗りだった。当時の船乗りというのはそもそも危険な職業で、海賊も横行しているし、「海」という国際政治的にも不安定な場所で生きていたわけだ。
で、若い船乗りだったカブリスも、囚われの身になって、スペインに上陸、そのあと英国のポーツマスに移送され、収監され、その後、イギリスの捕鯨船の乗組員になって15 歳で太平洋に向かったという。
ところが難破してポリネシアのマルキーズ諸島のある島にたどり着き、「人喰い人種」に食べられてしまったのだろう、と忘れ去られた後、7,8 年後に訪れたロシアの船(ドイツ人船長)によって発見され、1804年にロシアに連れていかれた。
ロシアでは皇帝に迎えられ、帝国立中学の水泳教師として採用される。
ロシアでフランス女性と結婚し、13年後フランスに戻るが、ルイ18世からはわずかの補償金をもらっただけで冷たくあしらわれ、そのあとは生計を立てるためにパリの見世物小屋で働き、5年後に42歳で死んだ。

これだけでも波乱万丈だが、このカブリスは、難破先の島の部族の王に目をかけられて、なんと王の娘と結婚していた。部族の一員となるには、全身のタトゥーが必要なのだが、右目の周りの太陽光をはじめとして、大審問官、王族としてのシンボルのタトゥで全身が覆われた。

その部族のアイデンティティはこの全身タトゥにあったわけだ。
それでもロシア船が来たときは、彼が「白人」であったことはすぐに見分けられたのだろう。フランス語も通じた。
彼を「祖国」に帰還させるために訪ねてきたフランス人は、彼の言葉がフランス語とロシア語とポリネシア語との混合でとても理解しにくかったと言っている。

で、「祖国」フランスで冷遇された彼は、全身にタトゥの入った体を見世物小屋で公開し、「自伝」を含む「関連グッズ」を販売することで生計を立てたというわけだ。しかも、それには、いつか島に戻って残された妻子を連れてくる、あるいは島で「王」として妻子と共に過ごして統治する、という強い意志があったという。
ジョゼフ・カブリスとアイデンティティ_c0175451_04032855.png
当時描かれたこの絵では、肌が黒いけれど、それも「演出」の一つだったのだろうか。フランスは「植民地博覧会」「人間動物園」などの「現地人」見世物が産業のひとつになっていたけれど、カブリスの場合は、そのような「異人」ではなくその「変身」が人を魅了したのかもしれない。

歴史学者のクリストフ・グランジェhristophe Grangerが最近『ジョセフ・カブリス : 一つの人生の複数の可能性』という本を出したので初めてこの人のことを知った。

カブリスは、10代半ばで人生の波に翻弄された無教育(自伝も口述)の男だったけれど、部族の王にもドイツ人提督にもロシア皇帝にも、直ちにリスペクトされるようなよほどの何かを持っていたのではないかと思う。
それが「見た目」のせいでフランスからは冷遇されたけれど、その状況も把握し、分析し、それでも生計を立てる方法、それを最大化する戦略、島で自分に与えられた信頼や責任を果たす計画のために、「最適」な「アイデンティティ」を自分に付与したのだ。

今の時代の日本やフランスに住む平均的な人の一生にはこれほどの困難が降りかかるとは想像できないけれど、それでも、自分や家族の小さな事故、病気、各種ハラスメントや失業などから今のようなパンデミーまで、大波小波はいろいろあるだろう。
そんな時に自分に「被害者」レッテルを貼って「加害者」告発にばかりエネルギーを投与するとか、運命を呪って、あるいはひたすら受け身になっていろいろな形の逃避をするとか、承認欲求や消費欲求や蓄財にのめりこむとか、人生の「罠」もさまざまだ。
自分の過去も含めて人生で何を優先するのか、何に価値を置くのかという軸を持っている人は、他者に向けた「アイデンティティ」をも状況によって柔軟に「最適化」しながら生きることができる。今までなら「数奇な運命」の珍しい話として消費してしまったかもしれないカブリスの生き方が、そんなことを思わせてくれたのは、やはり時代のせいなのだろうか。
(下は「人間動物園」についての記事です。)



by mariastella | 2021-09-03 00:05 | 歴史
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