福音書の中のイエスの言葉についてのみごとな解説をラジオで耳にして、ふと考えた。
ことわるまでもないが、宗教や比較宗教の問題ではなく、信仰の話でもなく、ただの感想だ。
イエスが故郷のナザレを離れて「天の父の言葉」を伝えるため社会的に活動し始たのは30歳からのおそらく3年半未満の出来事だった。その間に選んだ弟子たちや彼に付き従った人や救われた人、教えに耳を傾けた人らに向かって放った言葉が福音書に書かれている。自分では何も書き残さなかったから、福音書がどのように伝えられどのように編集されたかは定かでないけれど、まあ、3年半くらいなら、養う家族もない若く使命感に満ちた独り身であれば、公生活に全てをかけるというのは、普通に考えても可能だと思う。長生きすればいろいろな政局にも巻き込まれて何がどうなったか分からないけれど、当時の権威にとっては「過激」に生きたので、捕らえられて処刑された。裁かれ、鞭打たれ、残酷刑で息を引き取るまで、初志貫徹、首尾一貫、自らの説教に合致した姿勢を貫いた。
で、なぜか釈迦のことを考えた。
釈迦は王家に生まれ、19歳で結婚して子の親となり、29歳で出家して6年修行して35 歳で悟りを開いた。それから梵天勧請説話が本当かどうかは知らないけれど、その悟りの教えを広める使命を自覚して、教えを説いたわけだが、その後、80歳で食中毒死するまでの公生活が実に45年。人生の半分以上だ。
釈迦も自分の著書を残すことなく、弟子による言行録しかない。
ともかく45年。
そんな長期間、常に人々の目に触れながら、ぶれることなく、伝道の旅を続け、時に「神通力」も発揮しながら煩悩を捨てる教えを語り続けた。
肉体の老化もあっただろうし、実際80歳になって自らの老衰を口にしている。
悟りを開いた「お釈迦さま」にこんな下世話なことを言うと罰当たりだけれど、よくも45年もぼろを出さなかった、というか、公人として首尾一貫、完璧にふるまえたものだと思ってしまう。
この2人が「人間」として生きた部分を見ただけなのだけれど、今やイエスの歳の倍も生き、フランスに住んで45年にもなる自分を思うと、3年半どころか、毎日の昼間のたった数時間のうちにも煩悩や不信に揺れ動き、ささやかな使命感など闇夜の稲妻のようにしかひらめかない。
だからこそ、すぐれた先人の教えを大切にしなくては、とあらためて思う。