Arteでマリー=アントワネットの裁判に関するドキュメンタリー映画を視聴した。
裁判と言っても、最初からギロチン送りは決まっていて、陪審員も革命政府の息のかかった15人(彼らの多くもその後のテロルで死刑になった)だ。
(2022/1/13まで視聴可。)
彼女と兄であるオーストリア皇帝との反フランス的なつながりについての罪状は、彼女も否認したし、裁判時はすべて証拠不十分だったけれど、後に、証拠が見つかったという。
自分の身と子供たちの身を守るためにせいいっぱいの自衛をした。
「証拠」というか、直接の「証言」がはっきりしていた「罪」が、おそらく全くのでっち上げだったのは皮肉だ。それはインセストの「告発」で、息子が署名した。
これについては、Sabine Melchior-Bonnetの『es grands hommes etleurs mères (Odile Jacob)』で詳しい経過を読み、衝撃を受けたことがある。
マリー=アントワネットが悲劇の女性だったのはそもそもの「政略結婚」に端を発する。
その「使命」はただただ、男子後継者を生む、ことに尽きた。彼女はそれを熟知していた。
ところが未来のルイ16世は彼女と性関係を持たず、オーストリア皇帝は彼に手術を受けさせてそれを可能にしたと言われている。2人とも1770年に10代半ばで結婚、はじめて床を共にしたと兄に報告したのは1777年、1778年12月に長女マリー=テレーズ誕生。でも、女子だから宮廷の目は冷たい。フェルセンと会ったのもそのころ。1779年には最初の流産。
1781年10月に待望の王太子を出産。法務官が性別を確認した後、ルイ16世は「あなたは私とフランスの願いを果たされました、王太子の母親です」と涙を浮かべて告げた。
ちなみにルイ16世はインテリだった。 ラテン語、英独伊語も学び、啓蒙の世紀の教育を受けた。性格もよく、苦労しただけに苦しむ人の気持ちへの共感能力も高く、王制の改善にも積極的だった。生涯に一度だけシェルブールで海を見ただけで、移動を好まず、正反対の性格で外交的な妻を真剣に愛していた。
1782年に二度目の流産。
しかも王太子は体が弱かった。
1785年3月に二番目の男子ルイ=シャルル誕生。
これでマリー=アントワネットの地位は安泰、30歳を過ぎて疲れていたが、1786年7月に二人目の女子を出産。しかしこの子は11ヶ月後に夭折した。
王太子の教育のため90人のチームが結成されたが、マリー=アントワネットは自分で乳母を任命するなどして反感をかった。(最初は女性ばかりに育てられ、7歳で男チームへ)
マリー=アントワネットの子供たちに対する愛情は本物だったが、当時の貴族によくあるように過多な愛情と放置との混合だった。娘は父親になつき、母には冷淡だった。
国民にとって、「よき母」であることが唯一の人気の材料だったことを心得ていた。
体の弱い王太子は4歳で天然痘にかかり、その後遺症で成長が止まった。王は泣き、王妃はその息子を伴って姿を見せることを避けた。この子は、フランス革命直前の1789年6月に世を去った。
(続く)
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