1793年の7月、ルイ16世が1月に処刑された後、ルイ17世となるはずのルイ=シャルルは、タンプルの牢獄から、母やおば、姉と引き離された。「より良い共和国教育を受ける」ために「学校教師」に預けられることが決定されたからだ。7/13の午後10時、突然士官たちがやってきて、寝ていたシャルルを連れ出した。マリー=アントワネットは息子のベッドの前に立ちはだかって全力で阻止しようとしたが、刑吏に強制連行させると脅されて泣く泣く用意をさせた。
8/1の深夜には彼女自身が娘と義姉から引き離されてコンシェルジュリに移動させられる。
彼女の裁判で罪状の多くが「証拠不十分」の感を否めなかったところに「政府」側の「僥倖」となったのが、ルイ=シャルルによるインセスト告発だった。庶民の家で虐待に近い生活をさせられていたシャルルは、自慰行為を見つかって責められ、それを教えたのが母であり、自分は母とおばの間に寝かされて性的虐待を受けたと言わされたのだ。
Arteのドキュメンタリーでは描かれていなかったが、8歳の子供の証言をでっちあげるなどたやすいことだと否定するマリー=アントワネットのまえにシャルルは引き出された。そして自分には十分自覚があり、嘘はつかない、と証言したのだ。洗脳のもとで、現実逃避が彼の身を守る唯一の道であったのだろうが、母親のショックの大きさはいかばかりだったろう。この時のマリー=アントワネットの「私が答えないのは、一人の母親に対してなされるそのような告発に答えることを母性が拒絶するからです」という叫びは、傍聴していた女性たちの心を動かしたという。
その証言は10/14 のことだった。しかし、「判決」は、「息子と性的関係を持ったのは、彼の神経を攪乱させてまだ王太子であることを錯覚させるための政治的思惑だ」というものだった。
その2日後にマリー=アントワネットは処刑された。
全てを失ったルイ=シャルルは間もなく病に倒れ、さらに1年間の虐待の後で待遇が改善されたが既に遅く、病と栄養不足で1795年5月に10歳で衰弱死した。
半年後に17歳になっていた姉だけが解放された。テロルの時代に終止符を打った総裁政府(ディレクトワール)が確立して、テロルの犠牲者たちの記憶を留めることを決定した者がいたからだ。
「母親としてのマリー=アントワネット」は、革命前にも好感を持たれていた。
危機管理が甘かったのは事実で、稀代の詐欺事件である首飾り事件などで自滅したのも不幸と言えば不幸だ。
それにしても、人は、何らかの「正当性」を掲げて集団で、どんな虐殺や人間性の抹殺にも突き進めるものだ。その「本性」は今でも至る所で観察できるのだから、あらためて、バダンテールが30年前に死刑廃止を成就したことの重みを感じる。