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L'art de croire             竹下節子ブログ

暗譜を取り戻す

T 先生のfacebookに、お知り合いの高齢の音楽家が、暗譜していたはずの12曲のクラシック音楽を、4ヶ月の入院治療(脳機能とは無関係)の後で、すべて忘却していることに気づいてショックを受けた、音楽のリハビリというのはあるのか?暗譜を取り戻す良い方法があるなら教えてほしい、という記事があった。

お役に立つ自信はないが、ささやかな体験談。

まず、音楽の暗譜能力にはもって生まれた個人差がある。

私に関しては、これまで、発表会や試験のために暗譜(楽器はピアノ、ヴィオラ、ギター)を強いられることがある度に、いろいろ工夫しながら苦労してきた。たいていは、その試験などが終わるともう弾かないような曲で、最初から「長期記憶」をねらっていない。

周りの音楽家には、楽譜を一度読んだだけで、どんな楽器ででも再現できる人もいるし、どんな転調も一瞬でできる人たちもいる。私は、努力すれば何とか試験の課題曲暗譜をクリアできるという程度だ。それでも、暗譜能力において私程度の音楽家も実はけっこういることも分かっているので、まあ、10段階なら5.5くらいかもしれない。

前にも書いたけれどバレエの振り付け記憶も、45分の振り付けを一度見ただけで記憶できるシルヴィー・ギエムのような天才もいる。私は4.5/10くらいで、慣れと努力によってようやく5/10くらいだ。それでも、記憶の維持で言うと、何度も踊って完全に記憶していた振り付け譜でも、1年も放置するともう忘れている。自分が振り付けたものでさえ、メモしておかないと忘れる。

(いわゆる「学校のお勉強」的な記憶は、一度読めば後で頭の中でページを繰って読み直すことができたので、また授業の内容も一度聞けばずっと覚えていられたので、苦労することはなかった。他の人が苦労しているのが理解できなかったけれど、バレーや楽器練習で個人差を見せつけられたことで、視野は広がった。肉体能力などももっと顕著な遺伝的要素に左右されるのだと思う。)

そんな平凡な能力の自覚しかない私が、ある時、「25歳以前に暗譜したものは一生忘れない」という記事をどこかで読んだ。で、24歳でフランスに来てエコール・ノルマルのギター科に入学するまでの間に、できるだけたくさんのお気に入りの曲を「暗譜」することに決めた。

「一生忘れない」という魅力と年齢制限のせいで結構必死にいろいろ覚えた。と言っても、10曲ほど。おかげでフランスに来た当初は誰の前でも、ミニコンサートを披露することができた。

ところがエコール・ノルマルの年間の課題曲はまったく別の世界で、それに没頭するうちに虎の子の10曲など遠いところに。それでも、バリオスなど、フランスで覚えたいくつかのレパートリーはいつも好きで弾いていたのでほぼ暗譜できた。昔覚えた曲の中でも、それらを生徒にレッスンする機会があるものは記憶をリセットできた。

トリオのレパートリーはどんどん増えてきたが、アンサンブルは基本的に譜面を見ながら演奏できるので問題なかった。でもそのうち、独奏曲はお蔵入りに。バロック音楽脳になってしまったので、情感に訴える曲にのめりこむこともないからだ。

で、前振りが長くなったけれど、「普通の音楽暗譜能力」の人でも絶対に忘れない本当の暗譜とは、

1. 指や腕が覚えている。つまり筋肉の動きのコンビネーションが脳に記憶されている。

2. 耳が覚えている。曲の全てをニュアンスも含めて脳内で再現したり、歌ったりできる。

3.五線譜を渡されたらその曲をすべて書くことができる。

だという。この3つがそろっていたら「平凡な人」でも最強の暗譜だ。

納得がいくけれど、私が25歳までに覚えたりその後に暗譜したり曲、すべて、12のレベルなのだ。2020年春のロックダウンの間、引きこもっていた私は、久しぶりに「虎の子」の曲を弾きなおすことにした。その直前まで、フランスや日本でのコンサートが決まっていたので、トリオの曲の練習しかしていない。でも、トリオの曲がどんなに素晴らしくても、ロックダウン中に一人で弾くのは空しい。で、鬱々とした気分を癒せるようなソロの曲を数年ぶりに弾いてみた。

さわりの部分は時々弾いていたので覚えているものもあったけれど、56分かかる全曲は忘却の彼方。「25歳未満の暗譜は一生もの」説はどうなった?

でも悔しいので楽譜を引っ張り出す。

でも、楽譜を見ただけでは難しい。

ピアノなら難曲でも一つの音符には一つの鍵盤しか対応しないけれど、ギターはポジションによっていろいろな可能性があって、ポジションの記憶がないとどのフレットを使うべきか分からない。

楽譜をちらっと見ただけで思い出す、というレベルでないことが分かったので、私がしたことは、毎日、12小節ずつ「解読」することだった。筋肉の記憶とか曲の記憶などはまったく動員しない、できない作業。3曲くらいを併行してそうやって読み、弾いてみて、また忘れ、次の日に繰り返し、そこまで弾いてみては、また次の1小節を解読。手と指の位置を目で記憶しようとする。

時間はたっぷりあるし、そういう作業をしている間はコロナ禍の信じられないような言説を忘れられるので精神衛生には悪くない。難曲、大曲ではないもの(「禁じられた遊び」のテーマとか)は生徒にレッスンしたこともあるので暗譜はすぐに戻ったのでしみじみ弾くことができた。

もっと複雑な曲は結構大変で、何十年も弾いていないものもあって手探りパズル状態だった。

で、結論を言うと、そうやって地道に解読しながら、楽譜を見ながらなんとか弾けるようになった後で、ある日、というかいつのまにか、まったく昔のように、手や指が勝手に動いていた。勝手に動く手や指を感心してみていた。筋肉記憶、脳内の神経記憶にスイッチが入って復活したらしい。そうなるともう頭で考えるのではなく脊髄反射のように次から次へと音が出る。「弾く人」ではなく「聴く人」になれるのだ。

泳ぎや自転車漕ぎなどは、一度習得したら、何十年泳がなくとも、自転車をこがなくとも、必要があれば「体が覚えている」と言われるし、実際にそうだと思う。同じように、暗譜演奏で来ていた手指の筋肉の動きの記憶も確実にどこかに刻まれていることは確信できた。でも、泳ぎなどとは違って、それを呼び覚ますには、無理やりにその動きを再現することで再起動するらしい。

(リセットした暗譜については、今は2ヶ月くらい弾かなくてもちゃんと戻っていて手指が動いている)

今は、暗譜の必要がある時は、ここで転調するとか、音楽的な分析をしながら理詰めで覚えていくことにしている。ここのところはこの音符で始まるなど、音符の名前を記憶することもある。

これは上述した3の単純ヴァリエーションで、筋肉や音だけでなく「言語化」を付け加えることで割と楽になることが分かった。

以上、厖大なレパートリーを暗譜で弾けるコンサート奏者とは天と地の差がある「暗譜弱者」の体験談に過ぎないが、手指が勝手に動いてくれるので聴くことに集中して演奏の質を上げていくことの喜びはすべての演奏家が共有できると思う。

だから、暗譜が「消えて」、指が動かなくなっても、初見のように少しずつ弾きながら言語化も加えて忍耐強く続けていけば、やがてすべては元通りになるし、新しい知的な発見も加わるかもしれない、とお伝えしたい。


by mariastella | 2021-10-20 00:05 | 音楽
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