カフェ・ソスペーゾ( caffè sospeso 保留コーヒー)というナポリ発祥の習慣がある。
日本のwikiには「裕福ならば」とあるけれど、たとえばパリのカフェのカウンターで飲むコーヒーは300円くらいだから2人分払うことは、裕福でなくてもできる。
この習慣は20世紀半ばに始まって、20世紀末にはすたれたけれど、2010年代にまた復活したそうだ。フランスには2013年から広まったけれど、カフェのオーナーの正直さにかかっているので、NPO仕様になっているようだ。よりフランスらしいのは「baguettes suspendues(保留バゲット)」で、フランス人が毎朝焼き立てを買うバゲットは100円くらいだから、この動きも出てきた。
特にボランティアの労働力もいらないのだから効率のいい助け合いだと思うのだけれど、日本だったら何に当たるのだろう。寒い季節には、立ち食いソバなどの「保留」があればホームレスの人にあたたまってもらえるかも。
フランスではこの秋に、ガス、電気、ガソリン、それにパンなど小麦粉製品が一斉に値上げで、悲鳴をあげている「庶民」の声があふれている。私はもちろん富裕層でない普通の中流なのだけれど、「ロックダウンでバカンスや劇場などに出かけなかったので可処分所得が増えてしまった」部類に属する。生活必需品が10%値上がりと聞いて深刻になることはない。それなら、たとえば、毎朝100円のバゲットを買うと仮定して、それが110円になったのを「保留パン」として220円払うとしたら、月に3600円の超過となる。家計を圧迫するような数字ではない。そのパンを食べる人が誰かは知ることもない。これって、私にとっては精神衛生にいい。
パリのメトロではいわゆる「物乞い」が回ってくるし、郵便局や教会の出入り口にも道端にも、時として子供と一緒にうずくまる女性などから「喜捨」を請求される。
メトロで自分の窮状やこれからの見通しまで滔々と述べる人などは説得力があるので、小銭を渡す人もいるけれど、私は、いつもスリに注意しているメトロの中でバッグから財布を取り出して開けるという動作がなかなかできない。小銭がポケットに用意してあればいいけれどそんな習慣はないし。
でも、窮状にあって助けを求める人と「対面」の関係で何かを渡す心理的負荷は私には大きい。「施す」という立場に無意識の権力勾配を感じるからだと思う。すなおでないからとも言えるけど。
税金控除のある公的な団体への寄付はたまにする。100€寄付しても税金優遇があるから実質30€ですよ、というやつだ。でも私が払わないで済む税金は社会に還元できないわけだから、微妙なところもある。
一方、例えば「保留パン」なら、どこの誰が食べてくれるかは知らないし、ある寄付金が実際どのように使われているかなどを気にすることなく、焼き立てパンを食べてくれる人の一時の満足を想像することができる。精神衛生にとてもいい。
と言っても、今の私は毎日バゲットなど買わないし、カフェにも行かないし、ごく近所に「保留ナントカ」の店も見かけない。でもこういうシステムが存在するということだけで社会の善意への信頼が取り戻される思いにつながり、実践者に敬意と謝意を表すばかりだ。